レグウィス

レグウィス

 

 

 

 

 

 ウィステリアが彼の部屋に入った時、ドアの辺りにはすでにアルコールの匂いが充満していた。くぐもっているのに何故かツンと鼻を刺すブランデーのような香りだった。広くない部屋だ。数歩すすめば、すぐにベッドの上に彼が倒れているのが見えた。灯りはない。ドアを閉めるか少しためらったが、この状況を他の人間に知られることと、今の彼と二人きりなることを天秤にかけ、後者を取った。ガチャリと扉が閉まる音が響き部屋は一度真っ暗になったが、幸い月明りがある夜だったおかげで、ウィステリアの目はすぐ暗闇に慣れた。

「はは。なってない。全然、なってないね」

 ベッドからレグルスの声がした。起きていたことにウィステリアは驚く。ノックをしたときに部屋の主からの返事はなかった。彼の声はいつもより幾分か明瞭さを欠いた発音だった。

「確かに俺の妻はそのぐらい綺麗だ。でも、まったく自業自得な理由で自棄を起こして酒に溺れた男を、心配して部屋を訪ねてくるほどの愚かな優しさを持ち合わせていないんだ」

 彼がなんの話をしているのかは分かる。けれど、誰に話しているのかがウィステリアには分からない。

「彼女は聡明な女だ。だから、俺の幻覚にしたって、悪魔の誘惑にしたって、その姿はまったく『なってない』んだよ、分かるだろ」

 もしかすると、寝言なのかもしれない。けれど、それにしてはあまりに多くを話しすぎている。酔って、前後不覚になっていると考えるほうが自然だ。

「……そう」

 ウィステリアは短く返事をした。するとレグルスはまた乾いた声で笑った。

「声まで完璧じゃないか。よくできた虚構だ」

 ベッドサイドテーブルには、数本のビンが空になって並べられていた。床に落ちているビンすらある。彼がこんな量の酒を飲んでいるところも、飲んだ酒をこんな風に雑然と置きっぱなしにしているところも、ウィステリアは見たことがない。そもそも、レグルスは酒に強いか弱いのか、それすら知らない自分に今気が付いた。

「放っておいてくれ」

 彼は顔を腕で覆っていた。

「くだらない妄想に、付き合ってる余裕はないんだ。俺の魂に価値なんて付きやしない。堕落した快楽を貪るような生活を満喫している」

 なんだか自分に言い聞かせるような言い草だ。ウィステリアはベッドに腰を下ろした。レグルスはこちらを見ようともしなかった。彼が自分をそんな風に扱ったことは今まで一度もなかった。だからこそ、彼は今夢の中にいるのかもしれないと、そう考えたくなっている自分が、なんだか急に愚かしく思えてきた。

「酷いことを言った」

 レグルスは突然、そう呟いた。

「あんな傷ついた顔、初めてさせた。俺はずっと、彼女に対してはめいいっぱい慎重に話してたんだ。ずっと、何年も。だから、もうおしまいなんだよ。慎重が、アダになった。今頃、彼女は部屋で父親宛に手紙を書いている。それだけのことなんだ。たったそれだけで、すべてが事足りる。その一筆が送られて、翌日にはあの家の戸籍から俺は消えてる。翌週には新居だった邸宅の名義が変わっているだろう。俺は名実ともに無一文で無職の放蕩者になる」

 ウィステリアは、今晩手紙を書いていない。別件で書こうと思っていた手紙すら、取りやめたところだった。確かに彼と初めて言い争いのようなことをしたが、そんな程度のことで離婚しようだなんて夢にも思っていなかった。けれどあの口論で、自分が驚き傷ついた以上に、夫は傷だらけになっているようだった。何が彼をそうさせたのか、心当たりがほとんどないことにウィステリアは段々と、焦燥感に似た――感情になる前の言葉の切欠のようなものを、覚えてくる。

「彼女のために、全部捨てたんだ。人生の全部を。あんなに欲しかったオヤジからの関心も、あんなに努力して取った教会の役職も、彼女の前じゃ、おがくずみたいに軽く吹き飛ぶごみだった。馬鹿だと思うだろう? でも、好きだったんだ」

 レグルスの声は弱く、微かに震えていた。どんな顔をしているのか、腕に覆われて表情が見えない。

「分不相応な欲をかくからこうなる。俺にもチャンスが巡ってきたって、馬鹿みたいに飛びついて。必死に媚びて、騙して、無理やり婚姻届けにサインさせて、これで俺の勝ちだって、………あははは、本気で思ってたのか? 手に入れたって? やっとここまできて、まさか、自分がとんだ欠陥品だったなんて、あはははは…!」

 レグルスは寝返りを打った。小さく丸まるように横を向き、ウィステリアからは背中しか見えなくなった。

「…………遅かれ早かれ、こうなるなら、」

 彼の声は途端に届きにくくなる。ウィステリアは消えていく音を追って、彼を覗きこんだ。

「もっと、……やさしく、……してやればよかった。あんな終わり方に、なんで俺は……」

 声はそこで途絶えた。

 ウィステリアが覗き込んだ彼の瞳は閉じられていた。握り込まれていたらしい酒瓶が、彼の手からこぼれて布団に落ち、さらにバランスを崩してゴトリと床にまで落ちて行ったが、その音にレグルスが気づくことはなかった。

 起こすべきなのか、ウィステリアは迷ったが、彼を起こしたところで、今なにを話せばいいのか、まったく見当もつかないどころかどう算段をつけていいのかすらも分からない自分を自覚したところだった。

 婚姻届けに無理やりサインさせたのは、むしろ自分の方だと思っていた。彼の世界では、まったく違う、何もかも別の物語が進行しているらしい。ウィステリアには彼と別れる気はないが、ここまで彼が硬く離婚を信じているからには、何かそのような盟約が、父と彼の間でなされているのかもしれなかった。そんなものが、仮にあるのなら、理不尽だ。いや、理不尽だと思っている自分に、ウィステリアは少し驚いている。彼と別れることを、自分が了承していないままに、勝手に進められるのは嫌だ。子供なんていなくても、彼と人生を過ごす気でいたらしい。自分の感情が、なんだか不思議だった。

「……レグ」

 呼び慣れたはずの彼の名を、小さく口にしてみる。呼びかけに、彼が応えないことが、これほど不安になるとは思っていなかった。

 

2024.03.11

7-5

 ここではないどこかに行ってしまった心は、そのまま戦闘中も帰ってこなかった。狩りの間中ずっとふわふわしたような、考えがうまくまとまらないような、まるで注意力散漫な調子でカタールを振るった。

 あんな調子で、誰にもばれなかったのが嘘のようだ。あるいは、全てがみんなに筒抜けだった可能性もある。

 狩りが終わって、清算が終わって、当たり前のようにツイードと岐路につくまで、時間はあっという間に過ぎていった。

 

(なんも記憶ない)

 

 食事に行こうと言っていたのに、次の予定が頭にいっぱいで何もかもを全部忘れたまま、気づけばスルガはツイードと宿屋の前に立っていた。

 入口まで着いてしまってから自分が夕食の過程を飛ばしたことを思い出して、スルガは慌てて背後のツイードを振り返る。

 

「あ、飯……」

 

 目が合ったツイードは、一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐにこちらの状態を察したのか、目元を緩め口から笑い声を漏らした。

「ふ」

「な、なに」

「なんで、そんなカチコチなんすか」

「や、なんか緊張しちゃって」

「今さら?」

 ツイードは面白そうにスルガの顔を窺っている。確かに、何を今さらこんなにふわふわすることがあるんだろう、とスルガは自分が不可解になる。

「……俺の部屋、なんか変かもしれなくて」

「あ、そっちですか」

 

「そんなに気ぃ使わなくても。俺の部屋もあんなんだったでしょ」

 ツイードの言葉で、スルガは彼の部屋を思い出す。紙の束、読み切れないような量と内容の本、それから壁に掛けられた衣類。部屋全体に、ツイードの匂いがしていた。「あれでも減らしたんですけどね」とツイードが投げやりに呟く。

「じゃあいっそ、夕飯は上で食べるってことにして、さっさと部屋に行っちゃいません? どうせ食堂で食っても、ぼんやりしたままですよ」

「あ、じゃあ、それで……」

 ツイードの提案に、スルガが頷くと彼は満足げに笑ってから、宿の入口に入っていった。

 

 

 

 

 ハムとパンとチーズとワイン、それから二つのワイングラス。ツイードは初めて来たであろう宿屋の食堂で、実に手際よく適当な食料を注文し、そのいくつかをスルガに持たせた。スルガはこの宿に部屋を借りて一年以上になるが、食堂のメニューがテイクアウトできることも、ワイングラスがレンタルできることも、初めて知った。頼まれた店員の手慣れた様子からして、もしかしたらこういうものは宿屋の食堂における常識なのかもしれない。けれど、こういった知識をいつどこで得るのか、きっかけは見当もつきそうにない。

 

「落ち着くでしょ、部屋のほうが」

 部屋にまで続く廊下を歩いている時に、ツイードはそう言った。食堂よりはそうだろうが、それでも結局は彼と二人で取る食事に、落ち着きなんてものがあるのだろうかとスルガは思う。考えても結論は出ないまま、自室にはすぐ着いた。

「あ、部屋ここです」

 スルガは懐から取り出した鍵で開錠し、ツイードのためにドアを開けると、彼は「お邪魔しまーす」と呟きながらスルガのすぐ隣を通っていく。

 

「ってか、もし今日は気分じゃないなら、俺、これ食ったら帰りましょうか?」

 ツイードは部屋に入るとすぐそう言ってスルガを振り返った。とんでもない提案だ。そんなことされたら、何もかもが。スルガは慌てて首を横に振る。

「いや! 気分じゃないとかじゃなくて!」

 大きな声にツイードは少しきょとんとしたようだったが、スルガが「……むしろ、気分ど真ん中っていうか……」と言葉を付け足すと、満足そうに浅く笑った。

「よかった」

 それから、ツイードは入口に立ったままだったスルガに手招きをする。

 スルガが後ろ手でドアを閉めると、すっとツイードが目の前まで間合いを詰めた。

(あ……)

 ツイードの唇がスルガに触れたのは、ちょうど鍵を施錠したのと同じタイミングだった。カチャリ、という音が、何かの合図みたいに口付けは深まっていく。

 柔らかい。甘くて、空腹感を刺激するようなキスだ。もっと、とスルガが一歩前に出たところで、驚くほどあっさりとツイードの顏は離れていった。

 頭の中が、キスの名残りだけで一杯になる。

 

「とりあえず、ワイン開けます?」

「え」

「え? ワイン飲まない?」

「……いま、無理になりました」

「ははは。今日のスルガさん、ヤりたい一色ですね」

 

 その言葉に、「あ、しまった」と途端に自分の中の冷静な感情が戻ってきて、スルガは顔を上げる。

 

「すみません、飯食います、ちゃんと」

「別にどっちからでもいいですよ、俺も。……でもまあ、食います? 折角ですし」

 ツイードが窓際のテーブルにボトルとグラスを並べていくので、スルガもそれに倣い食料を置いた。既に程よくスライスされていたハムとチーズは並べるだけで立派な夕食の一皿になった。料理とは、こうやって成されていくものなのか、と少し感心してしまう。

 

「いい部屋じゃないですか」

 ワインを注ぎながら、ツイードが言う。

「部屋、どこが変って言われたんですか? めちゃくちゃ片付いてるのに」

 仲間の話などはしていなかったはずだが、ツイードにはスルガの経緯が察せているようだった。この男に見透かされるのに、スルガは段々と慣れつつある。ただ、ツイードが何故か不満そうに見えるのが、少し気掛かりだ。

 

「……なんか怒ってます?」

「いえ?」

 スルガは、わずかなその気配を追うと、彼はすぐその翳りを表情から消した。ツイードの感情の尻尾は、なかなか掴めない。噴水公園まで歩いた夜の日は、確かに何かを掴めていたと思ったのに。まぐれだったんだろうか。

 

「……荷物が、少ないから。価値観が違ってたら、俺、フられるかもなって、昨日、考えちゃって」

「はい??」
 こんどは隠しもせずに『理解できない』という顔で、ツイードが眉を寄せた。

「どういう……? 少ないですか? 荷物。まあ、少ないか」

 部屋を見回したツイードは、荷物らしい荷物が壁の隅に置かれた布袋だけだと悟ると、「あー…、まあ」と言葉を繋げた。

「いいと思いますけどね、俺は、こういう部屋。少なくとも、人生の意味とかに困ってなさそうで」

「人生の……?」

 思わぬ方向に庇われて、スルガは頭の中でその内容を数回繰り返す。が、理解できそうにない。

「……?」

「いるじゃないですか、自分の価値とか……そういうのに飢えてるやつ」

「……いますか」

「いるんですよ、世の中には。腹が減ってるやつは、泥でも啜りますからね」

 はい、と話の途中で渡されたパンを、スルガは両手で受け取る。上に乗せられたチーズとハムごと一口目を頬張ると、ちゃんとサンドウィッチの味がした。

「地に足ついてる感じで、いいけどな、この部屋」

「…そー、ですか」

 ツイードに貶されなかったという事実に、スルガはどこか安心してパンを噛みしめる。彼の言う話は、半分も理解できなかったが、でも何を言わんとしているか、匂いだけは感じることができた。

 スルガが落ち着いたのが肌で分かったのか、ツイードはからかうように話題を戻す。

「そもそも、荷物少ないぐらいで振らないですよ。スルガさん、俺のことなんだと思ってんですか」

「あー、いや、そういうことを疑っているんじゃなくて……」

 言葉を探すが、適切な語彙が見当たらない。

「でも、ツードさんて、好きじゃなくても付き合えるじゃないですか?」

 率直に言ったつもりだったが、ツイードが少しぎょっとしたのが分かった。あ、選びを間違えたか、と思ったけれど、彼の表情はすぐに定常状態を取り戻したので、スルガは息をつく。ツイードの声は探るように低い。

「俺……好きだって言いましたよね、最近」

「あ、や。それが嘘だろ、とかっていうわけじゃなくて」

 しばらくスルガの顔を見ていたツイードだったが、目を合わせているうちに彼の頭の中では何やら情報が整理されていったらしく、やがて、ゆっくり視線は外され、「あー……」と漏れ出るような声を出した。

「……まるで分かんないけど、なんか、スルガさんのことは分かってきたな」

 

(なんで分かるんだろ)

 スルガにはその方法が分からないが、なぜかツイードの出した結論には漠然とした信頼感が持てる。

 ツイードは、またスルガと目を合わせてから、じっと正面からゆっくり言った。

「ぶっちゃけ、確かに俺はそーですね。付き合えます。でも、独占欲が湧かなかったら、そもそも付き合わないですよ」

「独占欲……」

「合わないと思ってたんですよ、俺。スルガさんみたいなタイプの人。でも、欲しいって思えない人と付き合うって、ただ面倒なだけじゃないですか」

「ですか」

 スルガは、とりあえず相槌を打ってツイードの言葉を飲み込んだ。碌な咀嚼もしないまま飲み込んだ硬いパンの要領で、その言葉は咽喉を押し広げつつスルガの胃に落ちていった。消化し、吸収するまで、少し時間がかかりそうだ。

 

「今はそーじゃないですよ。一応言っときますけど」

「あ、はい」

「……分かってんのかなぁ」

「いや、分かります。っていうか、独占欲は、たぶん俺のほうがあります」

「へえ?」

 スルガのツイードは満足げに少しだけ笑った。

 それを、楽観的すぎる、とスルガは思う。初めは見ているだけで満足していたこの感情は、どんどん闇雲に増えていく。その先がどこに行きつくのか自分ですら分からないのに。そこが自分の制御下なのかも。

 駄目だ、実感が欲しい。

「解決しました? スルガさんの悩み」

「まあ、解決っていうか……そういうんじゃ……」

「はは」

 ワインを飲み干して、ツイードがふう、と息を吐いた。

「まだ、ちゃんと、ヤりたい一色残ってますか?」

「あ、ぜんっぜん残ってます」

 ツイードが首を少し傾けた。長い前髪が耳側にさらさらと落ちていき、金色の髪の奥にある赤紫の瞳が、ちらりと透けて覗く。

「じゃあ俺のほうの悩み、いいです?」

 

 え、とスルガは顔を上げた。頭の中にあったいくつかの単語たちは彼のその言葉を聞いて、一瞬で泡のようにパチンと消える。

(悩み)

 また何か、スルガの知らないところで、知らない話が進んでいこうとしている。危機かもしれない、と思うと神経は研ぎ澄まされるほうに加速を始めた。少しの機微も取り逃さないようにツイードをじっと眺める。

 

 何の前触れもなく、ツイードが席を立った。それをスルガが目で追う。彼は黙ってスルガが椅子代わりに座っていたベッドまで移動し、真横に腰かけた。

「確かめたいことがあって、早くやりたかったんですよね」

 高く組んだ足の上に肘をつき、彼が下からスルガは覗き込む。

 

「俺、スルガさんとヤるたび、性癖ぐしゃぐしゃにされてる感じする」

「え」

「めちゃくちゃ挿れたいんですよ」

 突然、情事の記憶が呼び起こされ、顔に血がのぼっていくのが分かる。熱さが耳の先にまで到達して、まだ冷静さを少しだけ残した頭のてっぺんだけで、スルガは「へ」と声を出した。

 確かにツイードとの行為は、いつも限界まで我慢させられているような精神的焦りが続くセックスのような気がする。あの耐久力を直接握りつぶされるような性的渇望を、自分だけじゃなくてツイードも感じているのか、と、気づいて、スルガの胸はバクバクと音を立て始める。

「あ、……お、れも」と、スルガが同意しようとした言葉を、ツイードは鋭く直線的な視線で遮った。彼の眼力に言葉を制されて、スルガが口を止めたのを確認したあと、ツイードはゆっくり言った。

 

「挿れてもいいですか?」

 声が、一粒一粒きわだって耳に入ってくる。その耳障りの良さに気を取られ、意味を理解するのが一歩遅れた。スルガは一拍おいてから、慌てて聞き返す。

「え!? ツードさん、嫌だって……?」

「いや、だから、今からとんでもない話をしますね。……俺はいやだけど、スルガさんがいいなら、挿れたいなぁって」

「と、」

 どうしてこの男は、こんなにもまっすぐこちらを見ることができるのか。

「マジで、とんでも…ないですね」

「でしょ?」

 悪戯っぽく、ツイードが笑った。しかし彼は引き下がることをしなかった。

 あげく、スルガの肩に自身のこめかみを預けてきて、間近から覗き込んでくる。

「……だめです?」

 のしかかるツイードの頭の重みに、スルガの脳はくらくらする。今すぐその唇に口付けて押し倒して体を貪りたいのは自分の方なのに。チグハグな思考に振り回されて、現状にうまく対処できそうもない。

 

「だめってか、…いや、……ど、どうやって」

「……どうやって、挿れる気だったんですか?」

「え」

「スルガさん、俺とヤりたかったんでしょ?」

 

 ツイードは、スルガの肩口に唇を付けた。軽く二、三度、ついばむように口付けられ、キスはやがて首筋にまで上がってくる。

 

「勝手にぬれないですよ、ケツは。……どうするつもりでした?」

 顎まで到達したキスのあと、スルガは口元にそのキスが降りてくるのを望んでいたが、ツイードの顔は鼻が触れあいそうな距離のところでとまり、両肩に力を加えられた。乗り込んできたツイードの体を片手で受け止めて、スルガが後ろに手をつく。

「スルガさん、一度はどうにかしようと思ってたでしょ?」

 ここまで後戻りがきかない体制になってからようやく、スルガはこの昼間からずっと続いている、彼の悪戯っぽい瞳の正体を理解した。

「用意してんでしょ? ねえ」

 そして、これは悪だくみをしている子供なんかじゃない。悪魔のような慈悲の無い笑みだ。

 

「この部屋にあんだろ。それ、出してください」

7-4

 

 空の高い場所に、薄い雲が広がっている。鎖の鎧みたいだ。

 こういう模様が空いっぱいに描かれている風景をどこかで見たことがあるが、あれはいつ、どこでだっただろうか。

 

「ねえ、聞いてんの? スルガ」

 上空にぼんやり漂っていたスルガの意識は、隣からの鋭い声によって一瞬で地上に戻された。

「お、おう、聞いてる聞いてる」

 慌てて相槌を打つと、スミの顔面が下からずいと近づいてくる。

「さすがに、さすがでしょ、ねえ?!」

「うん」

 

 朝、溜まり場に向かう途中で、スミとアンナに会った。二人は、昨日の昼にライオネルを見かけたという仲間の情報を得たらしく、そのことで怒りをぶり返しているようだった。自分も夜に会ったということを言えば話は余計にこじれそうで、スルガは黙って二人の話を聞いていた。

「まるまる一カ月だよ、信じらんない」

「だよねぇ、ひどいよ」

「どこまで無神経なんだろ」

「スルガさん、ライさんの居場所って、心当たりないんです?」

「え」

 居場所、というのは何を指している言葉だろう。

 泊っている宿ならきっとスルガの宿の近くにある数軒のうちのどれかだろうし、その全ての部屋を片っ端から調べていけばいずれは彼の部屋にあたるだろう。入口が1つしかない建物だったら、ドアの前で二日も張れば姿ぐらいは見れるはずだ。

 でも部屋なら、スルガよりスミのほうが詳しいはずだし、なぜこんな質問をされているのだ。

 

(最近の狩場を聞かれてる? 臨公場所?)

 

 臨時パーティーの募集が盛んな場所は、プロンテラ南門を出た広場と、城壁内の南東にある元騎士団――ではあるが、そんなこと誰でも知っている情報だ。

 ソロの狩場も、スルガは知らない。自分の愛刀はカタールだが、ライオネルは短刀だ。それだって、同じ二刀型のスミのほうが、スルガより見当が付きやすいだろう。

「いやぁ……分かんないわ」

「マジでどこにいんだろね、アイツ!」

 

 そもそも、ライオネルに会って、スミはどうするつもりなんだろう。おそらく、彼女のしたいようには、あの男は動かない。会ったところで、話に応じるとも思えないし、仮に話し合いができたとしたって、スミやアンナの常識でいうところの落としどころに、大人しく従うわけがない。どうしたって平行線だろう。

 彼女らが、どうしてそういう根本的な点をすっ飛ばして話を上に積み上げるのか、スルガにはさっぱり分からない。これが、あのアサシンの言うところの『あっち側』の言い分なのかもしれない。都合のいいときだけ、ライオネルの侮蔑的な意見が頭をよぎった。

 

(俺は今、そうとうダブスタなこと考えてる……)

 

 そういうしているうちに、いつもの溜まり場に到着した。スルガは内心ホっとする。

 すでに人が集まっていて、どこに出掛けるのか地図を開いて相談しているようだった。

 人だかりのひとつにすぐツイードの姿を見つけ、心が浮かび上がる。仲間には適当に挨拶を済ませて、スルガは彼の側に寄った。

 

「ちわー」

「おはようございます」

 冴えない夜と朝を過ごした後のツイードが、スルガの目にはひときわ輝いて目に映る。重ための前髪をゆるっと傾ける朝のツイードは、夜よりもぼんやりしていてとてもいい。

 ツイードは、スルガと一緒にきた女性陣2人にちらりと目をやってから、「おつかれさまですね」と絶妙にぎりぎりな言葉で労った。

 よく分かったな、とスルガは彼の観察眼に目を見張る。

「……ツードさんって、鋭いですよね」

「そうですかね」

「でも、ちょっと意地悪ですね」

「性格悪いっていうんですよ、こういうのは」

 ああ、そうか、とスルガが頷けば、ツイードは隣でくすりと笑った。最近の、機嫌がいいときに見せるツイードの笑みだ。

 

(めちゃくちゃ可愛い)

 

 スルガはさりげなくツイードの横に近づき、彼にひそかに囁く。

「ツードさん。俺、今日、二人で飯いきたいです」

 一瞬、こちらの行動を不思議がっていたツイードだったが、スルガの提案を聞くとすぐに話が分かったようだった。

「いーですよ」

「やった」

 彼の表情は、なんだか悪だくみをしている子供のように見える。

「でも、飯だけですか?」

 スルガは、え、とツイードと目を合わせた。さきほどからツイードが浮かべているいたずらっぽい笑みの意味に遅れて気づいて、スルガは慌てて返事を考える。

「あ、えっと、……宿、取ります?」

 こういう時の正解な態度が分からないまま、スルガの返答は手探りだ。ツイードが同じことを考えているのは嬉しいし、目論見が読まれているのは気恥ずかしいし、いやそりゃそうだろ当たり前の発想だよという客観的な気持ちと、これってあり?あり?やったぁ!?と思うバカ正直な気持ちが、脳の冷静な思考の面積を圧迫していく。

 ツイードは「んー」と視線で空中に弧を描いた後、正面を向いたまま頭だけをスルガの耳に少しだけ近づけて言った。

「俺、スルガさんち、見てみたいなぁ」

 ツイードの吐息まで聞こえた気がして、片耳だけが熱い。スルガは血の集まった耳を咄嗟に手で押さえ、またうるさく鳴り出した心音の中、返答を絞り出した。

「…………じゃあ、俺んちで」

「了解でーす」

 

 仲間たちが、行く先を決定したらしく集合をかけている。それにどこか心ここにあらずのまま、先に行くツイードをスルガは目で追った。

 

 

 

7-3

 

 熱いシャワーが、豪雨のように頭に降り注いでいる。

 それを一身に浴びていると、いつも思考がリセットされるような気になった。こういう原始的な手段は日常にどうしたって必要だ。身体の感覚を呼び起こさないと、地に足がついている感じがしない。

 子供の頃は、風呂が嫌いだった。服を脱ぐからだろう。でも大人になってからは好きだ。素手でも、裸でも、大丈夫になった。

 

 冒険者になってから、自分は本当に自由になったとスルガは思う。

 ナイフの握り方を覚えて、拳の振るい方が分かって、“頭”がスッキリしていく感覚があった。

 身体能力があがるたびに、何か潜在的な恐怖のようなものから解放されて、ずっとそれに容量を取られていた脳みその思考回路が、どんどん自由になっていった。そして解放されていく頭の領域を埋められるようなものも見当たらず、今までの人生で、そこはずっと空っぽだった。そんな気がする。

 

 ツイードのことばかり考えている最近は、もはや何もなかった頃の自分が何を考えていたのか、思い出せない。もっと昔の、何かで頭がいっぱいだった頃の自分のことは、もっと思い出せない。シャワーが嫌いだった理由も、記憶は薄れる一方だ。

 あれも確かに自分だったのに。幼い時の感覚は、未だに自分の奥底で息をしている。今の自分は確かにあの頃の自分の延長線上にいる。なのに、どんどんと、思い出せなくなる。

 自分がどこから来たのか分からなくなって、まるで迷子みたいだ。

 

 こういう時に熱い湯を頭からかぶると、今の『この瞬間』に帰ってこれるような気がして、だから大人になってからはシャワーが好きだった。

 

 

 シャワー上がりに、タオルで頭を拭き上げながら、スルガは窓辺に腰かけ水を飲んだ。

 窓の外は、灯りもほとんどない首都の夜道だった。

 火照った体に、冷たい水が心地いい。

 

 今のスルガは、こういった全部をツイードに共有したい。風呂上がりには放置せずタオルで髪を拭いたほうが翌朝に便利、だとか、水を飲んだほうが頭が痛くならずに済む、だとか、そういった自分の生活で得た知恵を、ぜんぶツイードに教えてやりたくなる。

 そして、これらすべての情報を、すでにツイードが当たり前のように持っていることも、本当は分かっている。

 こんなことを彼に伝えれば、呆れられるだろう。自分にとっての精一杯の知識が、彼にとっては取るに足らない常識だ。簡単に、見捨てられてしまう。

 

(ぶん殴って、別れたくなってたって、言ってたもんなぁ……)

 

 自分の行為が、彼をどうしようもなく苛つかせていることに、スルガは薄々気が付いている。でも、『何に』とか『どうして』とかいうところまでは分からない。人生のように、霧がかかったままだ。

 

 ベッドサイドに置かれたままの自分の荷物は、袋ひとつだ。

 ここに来た仲間は、以前これを少なすぎると言った。彼らのいう事のほうが大抵は正しいから、おそらくこれは少なすぎるんだろう。

 でも、これが今の自分の全部だ。

 タオル、布、包帯、麻の紐、いくつかのポーションカタールの手入れ道具、血豆が潰れたとき用の薬草の軟膏、いつかに女の子から貰ったクッキー缶、それを貰う前に買った乾パン、変な期待をして買った潤滑クリーム、勧められて買わされたけれど使い方の分からない皮を磨く道具。すべて手に入れた経路がはっきりと思い出せる、自分の一部。そして全部だ。

 これっぽっちじゃ、好かれようがないことは、分かっている。

 足りない何かがなんなのか、分からないし、多分自分の本音はそれを探していない。今の自分が、事足りているように、思ってしまう。

 

 関係を持続させる努力、

 ごっこ遊びの茶番、

 念願叶った初恋、

 殴って別れたくなる、

 どの言葉も理解できるし、けれど同じように自分から距離がある。

 離れているからこそ分かるのかもしれない。自分の近くにあるものほど分からなくなる。自分とツイードの関係値は、どれが真実なのか答えが宙に浮いたままだ。

 

(俺って、いつかフられんのかなぁ……)

 

 あるいは、それ以前の話なのか。

 恋人の事を想う多幸感と、それに伴う不安感は、まるで砂漠の影だ。日の光が強い日ほど、影に入ると眩暈がするほど何も見えなくなる。

 幸運で得た幸福だからこそ、簡単に去りえてしまう。

 そして、こんな不安だって、全部がほとんど妄想に近い幻想だと本当は気付いている。

 

(ツードさんに、触りたいな、はやく)

 

 皮膚の感覚が欲しい。そういう、直接的な感覚じゃないと、日常が取り戻せないから。

 

 

7-2

 

 今日はツイードが教会の用事で溜まり場に来ない日だった。だからなんとなく仕事終わりに飲まずに帰ってきたけれど、仲間たちの会合に顔を出せばよかった、と一人で食事を取りながらスルガは思う。

 自分の空腹の為だけに、自分で自分に食事を用意するのが何だか徒労のように感じられる。定宿の食堂でメニューを注文するだけのことなのに、なぜこんな面倒さが伴うようになってしまったんだろう。

 

 頼んだラザニアを淡々と口に運び、黙々と麦酒を飲み込んでいると、ジョッキは瞬時にカラになった。咽喉が渇いていたんだろうか。

 

 追加の酒を注文したタイミングで、スルガの隣の椅子がガタリと引かれた。

「よう、景気いいな」

 許可なく勝手に同席したのは、溜まり場の仲間の一人、アサシンのライオネルだった。

 無造作に伸ばされた薄紫色の髪もそのままに、装束を緩く着こなしたそのアサシンは、見かけ通りの雑さで、ドカっと椅子に腰かける。

「よう。今からメシ?」

「まあな、羽振りいいなら奢れよ」

「やだよ」

 テーブルの皿を少しよけて彼のスペースを作ってやりながらも、スルガがライオネルの無茶な要求をはっきり拒むと、彼はケケっと笑ってから、片手を上げて店員を呼びつける。

「キドニーパイと、ビール。黒な」

 

 久々にこのアサシンの姿を見た。今までどこに行っていたのかは知らないが、様子を見ると変わりもなく冒険者をやっているようだ。

「お前、スミが探してたよ」

「まだやってんのかあの女」

「そりゃ探すだろ、顔見せなくなったら」

 溜まり場の仲間たちは、彼らのことを恋人だと思っているが、それはスミからの見解で、この男の方からの認識ではそうじゃない。けれどそういうのも含めて、一つの恋愛関係のありようなのかな、とスルガは思っている。結局、どこまでも本人たち同士の話でしかないから。

「ケッ。くだらねえなぁ。やっぱアサシンでも駄目か。首都の女はゴミぞろいだ」

 

(そうかなぁ)

 何を、どこと比べて? そういう疑問がスルガの頭に浮かぶが、この男に聞いても回答は得られないだろう。

「アイツのせいで溜まり場にいけねえじゃねえか」

 まるで借金取りから逃げ回るようなライオネルの態度が、スルガには少し不可解だった。

「だったらちゃんと別れろよ」

「ハイ?」

 関係の解消を宣言するだけで、その煩わしさは簡単に消えるのでは、とスルガは一瞬考えたが、『いや、まあそんな簡単なことじゃないか』というようなことはすぐ理解できた。しかし言い訳は遅れ、ライオネルは片眉を上げたまま、疑念に満ちた視線を寄越す。

「お前までンなこと言ってんの? 茶番だろ、あんなの」

 いつものライオネルの言い分が始まってしまう。

「バカみたいに薄ら寒い、ごっこ遊びの子供だましだ。なにマジに取ってんだよ。お前だって分かんだろ。あっち側の言い分みてえなこと言ってんじゃねえ」

 料理の到着も待てずに、アサシンは煙草に火を付けた。大きく吐かれた煙のせいで、彼の感情まで霞んで見える。

「……そっか」

 

 ライオネルがこんな風に本音のようなものを吐露するのは、仲間内じゃ自分にだけだ。スルガはその自分にかけられた信頼の根拠が、ライオネルいわく『スラム育ち』というところにあるのが、いまいち腹に落ちていない。

「俺、よく分かんないけど」

「分かれよ、クソ馬鹿」

 確かにモロクの、ここよりは治安のよくない場所で育った。でも生まれはアマツだ。砂ぼこりまみれの風景も、松が植わった浜辺の風景も、どちらも明確に思い出せる。

 ライオネル同様、幼少期は両親が家にほぼ居ないような家庭環境だったけれど、自分は家の中のパンを盗って食べても、めったに殴られなかった。

 あれをスラムと呼ぶのかどうかも分からないし、あの経験が自分に何か特別なスキルを与えたのかどうかも分からない。

 そしてそういう育成環境が、『恋人関係はすべて茶番だ』と思うような精神性と、何の関係があるのかなんて、それこそまったく分からない。

 ライオネルが自分のことを仲間だとみなすその信頼感こそ、なにかそういった類いの別の幻想じゃなかろうかと思いはするものの、彼のそれを無闇に裏切りたくないという気持ちも働いて、スルガは上手く返事ができなかった。

 

「……嘘でも、別によくない?」

「ハ、騙せって?」

 ライオネルが、鼻で笑う。

「騙すっていうか、そんな風にも思わないだろ、たぶん」

 

 ライオネルの言っている言葉の意味やその価値観が、本当はまったく理解できないわけでもないから、スルガはこの混乱を自分の内側に向けるしかなかった。

 スラム出身の自分と、アマツ出身の自分を、都合よく使い分けることが、なんだかできない。

 簡単なことのはずなのに。ライオネルの前では調子を合わせて世界の偽善を笑い、スミの前では不義理を非難し彼女の背を撫でる――そう、できるはずなのに、なぜ自分はそうしないんだろう。

 

東通りのさ、ホットドッグ屋、あるじゃん」

「あ?」

 ライオネルは眉をしかめたものの「あるな」と返事をした。この男の、こういう所は好きだ。

「あそこさ、看板に『世界一ウマい!』って、書いてあんじゃん」

「……」

「あれってさ、嘘とか……思う?」

「何が言いたいんだテメェ」

 ライオネルの視線は鋭かった。

 スルガは自分の思考回路がいつのまにか、ライオネルとスミの関係に留まらず、もっと曖昧な、すべての人間関係の名称について感じていることへ、ふわふわと漂い流れていってしまったと気づいたが、もう話の収束のさせかたが分からずそれを続けて言うしかなかった。

「いや、なんつうか、ああいうのに、騙されたとか、そういうのないじゃないかなって」

「それとあの女の何が関係あんだよ。お前、相変わらず、なに言ってんのかサッパリ分かんねえな」

「え? 俺、今なに言ってんのか分かんないこと言ってる?」

「ぜんぜん分かんねえ」

「マジかぁ。俺、ヤバいな」

「ヤベえよ、テメェは、前からずっと」

 

 また、自分の中にあった何かの感情が、言葉にならないまま拡散していくのが分かる。でも、それをつかみ取る手段がスルガにはない。ずっとこういう意思疎通の困難さが、何故か自分の人生に付きまとっている。

 

 この後いつものようにライオネルから「腕は良いんだからシャンとしろよ」「クソボケだから貧乏くじ引かされんだよ」と説教をくらうのだろうし、その時の自分は「ああ」とか「うん」とかしか答えられないんだろう。この思考の停滞から、抜け出せる明確なビジョンが、スルガにはない。

 

 

(……ツードさんなら、分かってくれんのかな)

 

 

7-1

 

 パリンと、ガラスの割れる音が夜の路地に鳴り響いた。グラスか窓か酒瓶か、何がどういう経緯で割れたのかは分からない。どこで割れたのかにも、さほど気にならない。その後に続く怒声や悲鳴も、この街の夜を体現する記号の一部でしかない。

 スルガは自分の宿に帰るための最短経路を直進していく。

 暗い路地裏は、相変わらずすえた匂いがした。足元も見えない夜に、建物の側を歩くことは賢明ではない。何が落ちているか分かったものではないからだ。

 通りの道が、人間生活のしわ寄せのような道具やゴミや吐き出されたもので汚れていくにつれて、周辺の宿の値段は下がっていくから暮らしやすくて便利だ。モロクみたいな街と違って、底辺が安定した首都の裏路地は、夜だって狂ったふりをしなくても、誰もスルガの行く道を遮ってはこなかった。

 

 以前、一度、飲み会の後ツイードに送ってもらったことがあったが、あの時は彼をこの辺りまで来させるのは気が引けて、大通り沿いまで回り道をしてしまった。今を思えばあんなことする必要はなかったし、ああいった行いがたぶん彼を苛つかせていたんだろうと思う。

 ツイードは他人を偏った目で見ないけれど、それゆえに自分への先入観にも敏感な節がある。

 

 初めて彼と体を交えてから、数週間が経った。

 そのあいだに何度か、同じように彼と抱き合ったりする夜を過ごした。最高の酒よりも、極上の食事よりも、なにより甘美な体験だ。情事中に彼は例えようもなく魅惑的で、その芳醇な色気に毎回頭がくらくらするほど酔ってしまう。

 

 スルガが彼との逢瀬の約束を周囲の目に触れないところでするようになってからは、彼との関係は驚くほど滑らかに進むようになった。ツイードと自分の間にあった不自然な軋轢は、簡単な小石が原因だったようだ。

 ツイードからの希望というよりもスルガ自身が、これ以上恋人としてのツイードを周囲に発見されたくない気持ちが強くなったことが、すべての歯車を上手くかみ合わせたように思う。

 

 恋人と上手く関係を保てることが、こんなに気分よく生活を過ごせることに繋がっているなんて、今までの人生では知らなかった。

 こんなに愛しく思える恋人が居たことがない。

 そんな感情を自分が持てるという事実だって知らなかったし、そもそもどうして自分が人を好きになれたのか、スルガにはまだその時点のことすら疑問が残っている。たぶん、相手がツイードじゃなかったら、ここまでの経験には至らなかったんだろう。

 

 知れば知るほど、ツイード人間性はスルガにとって新鮮だ。

 おそらく初めはただの一目惚れで、それは顔が好みだとか、声が好みだとか、そういった表面的なものへの好意だけだったはずなのに、ささいな関心から彼の生活を近くで見ているうちに、段々と彼から目が離せなくなった。自分がどうしてこれほどまでに、彼の生き方に魅了されているのか、スルガにはその根源がまったく分からない。こういった興味がなぜ性的関心に結びついているのかも。

 でもスルガは確かに、ツイードと友人ではなく、恋人になりたいと思っていた。おそらく最初から。この惹きつけられる感覚は、どうしたって恋愛のそれだった。

 

 たまたま彼と付き合えることになったからよかったものの、不可能だったら、自分はどうなってしまっていたんだろう。スルガには、もう、ツイードと付き合えない自分の人生が想像できずにいる。

 

(ラッキーだったよなぁ、俺)

 

 裏通りにひときわ大きい笑い声が響いた。限界を迎えた酔っ払いは、何故か歓喜の声に似た音を出す。なんだか今日は騒がしいな、と思いはしたが、さして気には留めずに、スルガはやっと到着した自分の宿をドアを開け、食堂に入っていった。

 

 

6

 

 コンコン、とノックされたドアの音は、おそらく非常にささやかだった。

 けれど意識の覚醒まぎわだったスルガは、その音にガバリと飛び起きる。他人の気配だ。視線はほとんど無意識にいつものテーブルを探す。

 テーブル――がない、いつもの位置に、カタールがない。ナイフは? 咄嗟に枕の下へと手を差し込むが、柔らかな布以外の感触が無かった。ない。やばい。何が? どうしよう。どうして何もない? 昨日自分は――

 

(…………ちがう、ここ、俺んちじゃない)

 

 混乱する思考のまま、スルガが辺りを改めて見渡すと、そこは陽の光がさし込む見覚えのない部屋だった。

 昨日は夜に来たせいで、室内の雰囲気ががらりと変わって見える。

 ツイードの部屋だ。

 

 コンコン、と再び、ノックの音が響く。

 

「あの、ツードさん」

 隣で眠ったままのプリーストへ、スルガはおそるおそる声をかける。

「ひと、来てます」

 反応がない。

 慌ててスルガが肩を揺すると、渋々といった具合にツイードは声を出した。

「……ン」

 けれどそれはほとんど唸り声のような音でしかなく、ツイードの眉間にはみるみる皺が寄り、彼は布団を手繰り寄せて壁側を向いてしまった。

「え、ちょ、ツードさん?」

「……」

「え!? ツードさん?」

 

 三度目のノックの音がして、スルガは仕方なくベッドを下りた。彼の部屋の扉を、許可なく開けることに抵抗はあるものの、部屋主がああでは他にどうしようもない。

 ドアの向こうにいたのは、ブラックスミスのビジャックだった。

 

「早い時間にごめん。俺、今日、溜まり場に寄らないからさ」

 頼まれていた物だ、とビジャックはスルガに荷物を手渡した。彼はツイードの部屋から出て来たのが本人ではなくスルガだったことに、まったく何の驚きも見せなかったし、そのことについて話題にすらしなかった。

 スルガが受け取った紙の包みは、大きさの割にずしりと重い。中身はおそらく本だろう。

「それから、こっちは転売たのまれてたやつ。利益の六割」

「あ、はい」

「またよろしくどうぞ」

 小さな布袋を受け取って、スルガがビジャックと顔を合わせると、

「……って、言っといて」

 と、彼は初めて、ツイードに向けた言葉ではなく、スルガに向けてそう言った。

 

「お、起こさなくても?」

「いいよ、どうせアイツ起きないだろ」

 あ、そうなんだ、とスルガは思ったが、同時に「そんなことあるか?」という気もした。

 

「居てくれて助かった」

 ビジャックはそうスルガに礼を告げ、家主の顏も見ずに帰って行ってしまった。

 ぽつんと、玄関にスルガは残される。

 

 立ちすくんでいても仕方ない。預かった荷物を、とりあえずテーブルの上に置き、スルガはベッドに戻って腰を下ろした。

 布団の膨らみからはツイードのきれいな金髪が覗き、それが陽の光を受けてちらちらと輝いている。

 

――スルガさん……っ

「……!」

 突然、脳裏に昨夜のツイードがよぎる。

 スルガの血流は興奮を取り戻したように、バクバクと胸を鳴らしていた。

 彼の目にかかるあのきれいな金色の髪。少し前までは遠くで眺めているだけだった。

 

(……俺、昨日、この人と寝たんだな…………)

 

 

 改めて考えると、とんでもない事実だ。そんなことが可能になった現状が、なんだか信じられない。望んで、避けられて、渇望して、拒絶され――ていた事が、けっきょく昨夜、できてしまった。現実に実感がない。

 足元がふわふわしている。記憶もなんだか、あやふやだ。

(でも、めちゃくちゃエロかった。あんま覚えてないけど、すっげーエロかった)

 

 昨夜の記憶をさぐればさぐるほど、段々と冷静さが蓄積されて、恥ずかしさが増していった。

(俺、マジでツードさんとヤったの? っていうかさっき、ビジャックさん来たけど、あれ、思いっきりそういう感じって、分かっちゃった、よな……?)

 あのブラックスミスは自分の見聞きしたことを無闇やたらと言いふらすような男じゃない。いや、言いふらされたって、別にいいはずだ。何もやましいことはないんだし。そう考えなおしはしたものの、スルガの頭の片隅には、なにかもやもやした感情が残る。

 

(でも、ツードさんのそういうとこ、知られんのが、なんかやだな)

 ツイードが、誰かと寝てるなんて、そんなこと誰にも知られたくない。

 

 スルガだって、まさかツイードが周囲の人間から『今まで一度も性体験がない』だとか、絶対そんな馬鹿なこと思われていないということは知っている。そう、ツイードがセックスしていることなんて、みんな知っているのは分かっている。

(みんな? みんなって誰)

 知らないけど。知らないけど、知っているに違いない。面白くない気分だ。

 自分以外、世界中の誰も、ツイードの色気に、気づかないで欲しい。誰も妄想しないでほしい。どんな風にキスするのか、だとか、どんな顔で服を脱ぐのか、だとか。あんな煽情的な彼の姿なんて。自分以外、誰も。

 

(世界で初めて俺が発見した……ってことに、できないかな、今から。なんか、機密事項とかに、なったりしないかな……)

 

 馬鹿げた考えだ。隣で眠ったままの彼に知られたら、きっと笑われる。

 スルガは、きれいな金髪の後ろ姿を眺めながら、世界一無駄なことを考えている。その金色の髪は、頭の頂点から、美しく重力に沿って流れていき、枕で一度、折れ曲がり、また流れてゆく。

 この光景ですら、情事の後の特権なのではないかと思えるスルガの思考回路は、いつまで経っても冷静さを取り戻せない。

 

 誰にも知られないのが無理なことぐらい、自分が一番よく分かっている。

 

(だってこの人――なんかもう、オーラがすでにエロいもんな……)

 

 ツイードの起きる気配はない。

 なんだか悶々とした感情のまま、スルガは陽の当たる彼の部屋に一人、取り残された気分だった。