7-5

 ここではないどこかに行ってしまった心は、そのまま戦闘中も帰ってこなかった。狩りの間中ずっとふわふわしたような、考えがうまくまとまらないような、まるで注意力散漫な調子でカタールを振るった。

 あんな調子で、誰にもばれなかったのが嘘のようだ。あるいは、全てがみんなに筒抜けだった可能性もある。

 狩りが終わって、清算が終わって、当たり前のようにツイードと岐路につくまで、時間はあっという間に過ぎていった。

 

(なんも記憶ない)

 

 食事に行こうと言っていたのに、次の予定が頭にいっぱいで何もかもを全部忘れたまま、気づけばスルガはツイードと宿屋の前に立っていた。

 入口まで着いてしまってから自分が夕食の過程を飛ばしたことを思い出して、スルガは慌てて背後のツイードを振り返る。

 

「あ、飯……」

 

 目が合ったツイードは、一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐにこちらの状態を察したのか、目元を緩め口から笑い声を漏らした。

「ふ」

「な、なに」

「なんで、そんなカチコチなんすか」

「や、なんか緊張しちゃって」

「今さら?」

 ツイードは面白そうにスルガの顔を窺っている。確かに、何を今さらこんなにふわふわすることがあるんだろう、とスルガは自分が不可解になる。

「……俺の部屋、なんか変かもしれなくて」

「あ、そっちですか」

 

「そんなに気ぃ使わなくても。俺の部屋もあんなんだったでしょ」

 ツイードの言葉で、スルガは彼の部屋を思い出す。紙の束、読み切れないような量と内容の本、それから壁に掛けられた衣類。部屋全体に、ツイードの匂いがしていた。「あれでも減らしたんですけどね」とツイードが投げやりに呟く。

「じゃあいっそ、夕飯は上で食べるってことにして、さっさと部屋に行っちゃいません? どうせ食堂で食っても、ぼんやりしたままですよ」

「あ、じゃあ、それで……」

 ツイードの提案に、スルガが頷くと彼は満足げに笑ってから、宿の入口に入っていった。

 

 

 

 

 ハムとパンとチーズとワイン、それから二つのワイングラス。ツイードは初めて来たであろう宿屋の食堂で、実に手際よく適当な食料を注文し、そのいくつかをスルガに持たせた。スルガはこの宿に部屋を借りて一年以上になるが、食堂のメニューがテイクアウトできることも、ワイングラスがレンタルできることも、初めて知った。頼まれた店員の手慣れた様子からして、もしかしたらこういうものは宿屋の食堂における常識なのかもしれない。けれど、こういった知識をいつどこで得るのか、きっかけは見当もつきそうにない。

 

「落ち着くでしょ、部屋のほうが」

 部屋にまで続く廊下を歩いている時に、ツイードはそう言った。食堂よりはそうだろうが、それでも結局は彼と二人で取る食事に、落ち着きなんてものがあるのだろうかとスルガは思う。考えても結論は出ないまま、自室にはすぐ着いた。

「あ、部屋ここです」

 スルガは懐から取り出した鍵で開錠し、ツイードのためにドアを開けると、彼は「お邪魔しまーす」と呟きながらスルガのすぐ隣を通っていく。

 

「ってか、もし今日は気分じゃないなら、俺、これ食ったら帰りましょうか?」

 ツイードは部屋に入るとすぐそう言ってスルガを振り返った。とんでもない提案だ。そんなことされたら、何もかもが。スルガは慌てて首を横に振る。

「いや! 気分じゃないとかじゃなくて!」

 大きな声にツイードは少しきょとんとしたようだったが、スルガが「……むしろ、気分ど真ん中っていうか……」と言葉を付け足すと、満足そうに浅く笑った。

「よかった」

 それから、ツイードは入口に立ったままだったスルガに手招きをする。

 スルガが後ろ手でドアを閉めると、すっとツイードが目の前まで間合いを詰めた。

(あ……)

 ツイードの唇がスルガに触れたのは、ちょうど鍵を施錠したのと同じタイミングだった。カチャリ、という音が、何かの合図みたいに口付けは深まっていく。

 柔らかい。甘くて、空腹感を刺激するようなキスだ。もっと、とスルガが一歩前に出たところで、驚くほどあっさりとツイードの顏は離れていった。

 頭の中が、キスの名残りだけで一杯になる。

 

「とりあえず、ワイン開けます?」

「え」

「え? ワイン飲まない?」

「……いま、無理になりました」

「ははは。今日のスルガさん、ヤりたい一色ですね」

 

 その言葉に、「あ、しまった」と途端に自分の中の冷静な感情が戻ってきて、スルガは顔を上げる。

 

「すみません、飯食います、ちゃんと」

「別にどっちからでもいいですよ、俺も。……でもまあ、食います? 折角ですし」

 ツイードが窓際のテーブルにボトルとグラスを並べていくので、スルガもそれに倣い食料を置いた。既に程よくスライスされていたハムとチーズは並べるだけで立派な夕食の一皿になった。料理とは、こうやって成されていくものなのか、と少し感心してしまう。

 

「いい部屋じゃないですか」

 ワインを注ぎながら、ツイードが言う。

「部屋、どこが変って言われたんですか? めちゃくちゃ片付いてるのに」

 仲間の話などはしていなかったはずだが、ツイードにはスルガの経緯が察せているようだった。この男に見透かされるのに、スルガは段々と慣れつつある。ただ、ツイードが何故か不満そうに見えるのが、少し気掛かりだ。

 

「……なんか怒ってます?」

「いえ?」

 スルガは、わずかなその気配を追うと、彼はすぐその翳りを表情から消した。ツイードの感情の尻尾は、なかなか掴めない。噴水公園まで歩いた夜の日は、確かに何かを掴めていたと思ったのに。まぐれだったんだろうか。

 

「……荷物が、少ないから。価値観が違ってたら、俺、フられるかもなって、昨日、考えちゃって」

「はい??」
 こんどは隠しもせずに『理解できない』という顔で、ツイードが眉を寄せた。

「どういう……? 少ないですか? 荷物。まあ、少ないか」

 部屋を見回したツイードは、荷物らしい荷物が壁の隅に置かれた布袋だけだと悟ると、「あー…、まあ」と言葉を繋げた。

「いいと思いますけどね、俺は、こういう部屋。少なくとも、人生の意味とかに困ってなさそうで」

「人生の……?」

 思わぬ方向に庇われて、スルガは頭の中でその内容を数回繰り返す。が、理解できそうにない。

「……?」

「いるじゃないですか、自分の価値とか……そういうのに飢えてるやつ」

「……いますか」

「いるんですよ、世の中には。腹が減ってるやつは、泥でも啜りますからね」

 はい、と話の途中で渡されたパンを、スルガは両手で受け取る。上に乗せられたチーズとハムごと一口目を頬張ると、ちゃんとサンドウィッチの味がした。

「地に足ついてる感じで、いいけどな、この部屋」

「…そー、ですか」

 ツイードに貶されなかったという事実に、スルガはどこか安心してパンを噛みしめる。彼の言う話は、半分も理解できなかったが、でも何を言わんとしているか、匂いだけは感じることができた。

 スルガが落ち着いたのが肌で分かったのか、ツイードはからかうように話題を戻す。

「そもそも、荷物少ないぐらいで振らないですよ。スルガさん、俺のことなんだと思ってんですか」

「あー、いや、そういうことを疑っているんじゃなくて……」

 言葉を探すが、適切な語彙が見当たらない。

「でも、ツードさんて、好きじゃなくても付き合えるじゃないですか?」

 率直に言ったつもりだったが、ツイードが少しぎょっとしたのが分かった。あ、選びを間違えたか、と思ったけれど、彼の表情はすぐに定常状態を取り戻したので、スルガは息をつく。ツイードの声は探るように低い。

「俺……好きだって言いましたよね、最近」

「あ、や。それが嘘だろ、とかっていうわけじゃなくて」

 しばらくスルガの顔を見ていたツイードだったが、目を合わせているうちに彼の頭の中では何やら情報が整理されていったらしく、やがて、ゆっくり視線は外され、「あー……」と漏れ出るような声を出した。

「……まるで分かんないけど、なんか、スルガさんのことは分かってきたな」

 

(なんで分かるんだろ)

 スルガにはその方法が分からないが、なぜかツイードの出した結論には漠然とした信頼感が持てる。

 ツイードは、またスルガと目を合わせてから、じっと正面からゆっくり言った。

「ぶっちゃけ、確かに俺はそーですね。付き合えます。でも、独占欲が湧かなかったら、そもそも付き合わないですよ」

「独占欲……」

「合わないと思ってたんですよ、俺。スルガさんみたいなタイプの人。でも、欲しいって思えない人と付き合うって、ただ面倒なだけじゃないですか」

「ですか」

 スルガは、とりあえず相槌を打ってツイードの言葉を飲み込んだ。碌な咀嚼もしないまま飲み込んだ硬いパンの要領で、その言葉は咽喉を押し広げつつスルガの胃に落ちていった。消化し、吸収するまで、少し時間がかかりそうだ。

 

「今はそーじゃないですよ。一応言っときますけど」

「あ、はい」

「……分かってんのかなぁ」

「いや、分かります。っていうか、独占欲は、たぶん俺のほうがあります」

「へえ?」

 スルガのツイードは満足げに少しだけ笑った。

 それを、楽観的すぎる、とスルガは思う。初めは見ているだけで満足していたこの感情は、どんどん闇雲に増えていく。その先がどこに行きつくのか自分ですら分からないのに。そこが自分の制御下なのかも。

 駄目だ、実感が欲しい。

「解決しました? スルガさんの悩み」

「まあ、解決っていうか……そういうんじゃ……」

「はは」

 ワインを飲み干して、ツイードがふう、と息を吐いた。

「まだ、ちゃんと、ヤりたい一色残ってますか?」

「あ、ぜんっぜん残ってます」

 ツイードが首を少し傾けた。長い前髪が耳側にさらさらと落ちていき、金色の髪の奥にある赤紫の瞳が、ちらりと透けて覗く。

「じゃあ俺のほうの悩み、いいです?」

 

 え、とスルガは顔を上げた。頭の中にあったいくつかの単語たちは彼のその言葉を聞いて、一瞬で泡のようにパチンと消える。

(悩み)

 また何か、スルガの知らないところで、知らない話が進んでいこうとしている。危機かもしれない、と思うと神経は研ぎ澄まされるほうに加速を始めた。少しの機微も取り逃さないようにツイードをじっと眺める。

 

 何の前触れもなく、ツイードが席を立った。それをスルガが目で追う。彼は黙ってスルガが椅子代わりに座っていたベッドまで移動し、真横に腰かけた。

「確かめたいことがあって、早くやりたかったんですよね」

 高く組んだ足の上に肘をつき、彼が下からスルガは覗き込む。

 

「俺、スルガさんとヤるたび、性癖ぐしゃぐしゃにされてる感じする」

「え」

「めちゃくちゃ挿れたいんですよ」

 突然、情事の記憶が呼び起こされ、顔に血がのぼっていくのが分かる。熱さが耳の先にまで到達して、まだ冷静さを少しだけ残した頭のてっぺんだけで、スルガは「へ」と声を出した。

 確かにツイードとの行為は、いつも限界まで我慢させられているような精神的焦りが続くセックスのような気がする。あの耐久力を直接握りつぶされるような性的渇望を、自分だけじゃなくてツイードも感じているのか、と、気づいて、スルガの胸はバクバクと音を立て始める。

「あ、……お、れも」と、スルガが同意しようとした言葉を、ツイードは鋭く直線的な視線で遮った。彼の眼力に言葉を制されて、スルガが口を止めたのを確認したあと、ツイードはゆっくり言った。

 

「挿れてもいいですか?」

 声が、一粒一粒きわだって耳に入ってくる。その耳障りの良さに気を取られ、意味を理解するのが一歩遅れた。スルガは一拍おいてから、慌てて聞き返す。

「え!? ツードさん、嫌だって……?」

「いや、だから、今からとんでもない話をしますね。……俺はいやだけど、スルガさんがいいなら、挿れたいなぁって」

「と、」

 どうしてこの男は、こんなにもまっすぐこちらを見ることができるのか。

「マジで、とんでも…ないですね」

「でしょ?」

 悪戯っぽく、ツイードが笑った。しかし彼は引き下がることをしなかった。

 あげく、スルガの肩に自身のこめかみを預けてきて、間近から覗き込んでくる。

「……だめです?」

 のしかかるツイードの頭の重みに、スルガの脳はくらくらする。今すぐその唇に口付けて押し倒して体を貪りたいのは自分の方なのに。チグハグな思考に振り回されて、現状にうまく対処できそうもない。

 

「だめってか、…いや、……ど、どうやって」

「……どうやって、挿れる気だったんですか?」

「え」

「スルガさん、俺とヤりたかったんでしょ?」

 

 ツイードは、スルガの肩口に唇を付けた。軽く二、三度、ついばむように口付けられ、キスはやがて首筋にまで上がってくる。

 

「勝手にぬれないですよ、ケツは。……どうするつもりでした?」

 顎まで到達したキスのあと、スルガは口元にそのキスが降りてくるのを望んでいたが、ツイードの顔は鼻が触れあいそうな距離のところでとまり、両肩に力を加えられた。乗り込んできたツイードの体を片手で受け止めて、スルガが後ろに手をつく。

「スルガさん、一度はどうにかしようと思ってたでしょ?」

 ここまで後戻りがきかない体制になってからようやく、スルガはこの昼間からずっと続いている、彼の悪戯っぽい瞳の正体を理解した。

「用意してんでしょ? ねえ」

 そして、これは悪だくみをしている子供なんかじゃない。悪魔のような慈悲の無い笑みだ。

 

「この部屋にあんだろ。それ、出してください」