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 外はもう、すっかりと夜になっていた。

 最後に食べた食事は、狩りがひと片付けした後に取った随分と遅い昼食で、そのせいか今はまだなんの空腹も感じない。

狩りをしていると、こういう日ばかりになる。たまり場の打ち上げに参加する夜なら、適当に肴をつまんでいたらそれで事足りるのだが、一人の夜はどうしても夕食に悩んでしまいがちだった。

 結局、ツイードは自分の宿から近い行きつけの酒場へ足を運んだ。

 一人で飲む酒は決して美味くないが、腹も減らない時に一人で取る食事よりは、まだいくらか味がするだろう。

 

 辿り着いた夜の酒場は、日も落ちた今が盛りの時間帯で、多くの冒険者の客がそれぞれのテーブルで賑わい、店内はほどよいざわつきに包まれていた。

 ツイードは入り口近くのカウンターに腰を下ろすと、一番安いオードブルとワインを頼む。口髭を蓄えた店主は、無言でそれに頷き拭いていたグラスを置いた。

 

 大衆酒場の前菜は感心するほど早く、露店売りの床に並べられた商品のような乱雑さで、皿の上に乗せられて出てくる。

 オリーブの酢漬け、アンチョビ、ベーコンにスモークチーズ。どれも腹が膨れるものではなかったが、今のツイードの胃には十分な量だった。全体的に暗い色をしたそれらの一つにフォークを突き立てる。

 

 なんだかすっきりしない気持ちなのは、今日の打ち上げを断ってしまったからだろう。

 おまけに教会にまで寄ってしまって、ツイードの今の感情はノイズが激しくなっている。オードブルよりも雑然とした脳内の言葉たちも、一つずつ摘まみ上げて口に放り込めれば楽だろうにと、無駄な空想を頭に巡らせた。

 

 食事を断った時の、俯いたスルガの顔を、ぼんやりと思い出す。

 

 こういうざらざらした怒りを、スルガにぶつけるのはお門違いだ。

 伝えもしていない自分側の問題のせいで腹を立てられたら、彼もたまったものではないだろう。

 丁寧で誠実なスルガの態度と、それをどこか綺麗事のように感じている自分。

 自分の手を引くスルガの肌の感触や、抱きしめて口づけた首元の感触ばかりが心地よくて、いっそそれ以外は全部わずらわしいもののように思えてくる。

 本来ならそんな斜めに歪んだ感情で、彼に向き合うべきではないんだろう。

 あの人はもっと大切にされたほうがいい。

 

 自分は、悪いことをしているのだろうか。

 ツイードには、もう分からない。

 

(これ以上踏み込まれたら、俺、まずいな……。振り払って、殴りそうだ)

 

 ツイードは頭を抱え、大きく溜め息をついた。

 視界に入ったグラスのワインは、気づけばカラになっている。デカンタにすればよかった。

 追加の飲み物を頼もうか悩みながらツイードが顔を上げると、端にある入り口のドアが開き、外の冷えた空気がカウンターに入り込んで来る。

 席を空けるべきか、と戸口のほうを見たツイードは、入ってきた冒険者の姿を確認して、その動きを止めた。

 

 そこにいたのはスルガだった。

 店内を何度か見渡した彼と、途中でばちっと目線が合う。

「あ」

 

 少し申し訳なさそうにはにかんだスルガの顔を見て、ツイードの内心は、突然重いものを乗せられた天秤の針のようにガタガタと揺れ始める。

 乱れた感情は、驚きや怒りや呆れの中に、なぜか安堵の気配が混ざっていた。

 

「えっと、……すみません、こんばんは」

 近寄ってきて自分の隣の椅子に腰かけたスルガを、ツイードは茫然と眺めていた。

「なんで、ここ」

 口から漏れた疑問に、スルガがおずおずと答える。

「えっと…、サラエドさんに教えてもらって」

「えっ? 来てました?」

 普段はたまり場に来ない友人の名前に、ツイードは尋ね返した。

 スルガは、「あー…、飲み会に顔だしてて」と頬をかいた。

「あんま話したことなかったんですけど、今日は席が近くて、仲良くなって…」

 

(人たらしかよ)

 

 誰とでもすぐ打ち解けるのか、このアサシンは。

 サラエドは、どちらかというと警戒心の強いタイプのハンターだ。表面上はヘラヘラ笑っていても、腹の内はあまり明かさない。その彼が、この酒場をスルガに教えたという事は、よほど気に入られたんだろう。

 

「……ツードさん、遅くなるからってだけで、俺と飯食うのが嫌ってわけじゃないっぽい言い方してたんで……。あの、すみません、急に来て」

「…………いえ、全然」

 上手く、言葉にならなかった。

 別に必ずこの酒場に来るわけでもない。ここに来たからといって自分に会える保証はなかった。それをスルガも理解していたはずだ。無駄足になる可能性もあったのに。

 

「用事、どうでしたか」

「あ、終わりました」

「飯、もう食っちゃいました?」

「いや、これが夕飯ですね」

「マジですか? ツードさんって意外に物食いませんよね」

「そうです? そうかなぁ」

 そんなこともないですけど、と口から声を出しながら、ツイードの言葉は感情の表層を滑っていく。

 何故かは分からない。

 そもそも、スルガがどうしてここに来たのかも分からない。

 答えのめどは簡単につく。彼はもちろん、自分と食事がしたかったんだろう。

 でも、じゃあ何故。

 それはもちろん、自分の事が好きだからだろう。

(だったら、それこそ、どうしてだ)

 

 

「ツードさんがここにいるうちに、来れてよかったです」

「打ち上げ、早く終わったんですね」

 ツイードが顔を上げると、スルガは「はは」と照れ笑いして、視線を横に逸らした。

「みんなに追い出されて、抜けてきちゃったんです」

 はにかむスルガを見て、ツイードは声が出ない。

 自分の感情が、今また無理やり床に押さえつけられて、上から踏まれたような強さで震えているのが分かった。

 このアサシンの背を押すのは、いつも自分じゃない。自分では、俯かせて小さくさせるばかりだ。あのスルガをみていると、頭の奥が絞られたみたいに痛む。

 いつのまにか、スルガの『可哀想』が、『可愛い』と思えなくなっている自分に、ツイードは気づいた。

 

(もう、駄目だ。別れよう)

 

 その結論は、ひらめくようにやってきた。

 そう考えたあと、何を今更こんなことを思いついたみたいになっているんだ、とも思った。

 その結論はもうずっと前から、ツイードの中で決まっていたことのように思う。

 自分がまともに他人と付き合えるわけがなかった。結局、振り回して、振り回されただけだった。

 

(早いほうがいい。言うなら、もう今夜でいい)

 

 スルガのことだ、別れても、みんなに慰められるに決まっている。片思いで付き合って、数ヶ月ですぐフられて、泣きながら酒を飲んで、それを仲間に慰めてもらう。そういう一連の流れすら、なんだかもうスルガらしいではないか。

 

「ツードさん?」

 スルガがツイードの顔を覗き込む。

 ツイードは、手で押さえた額を無理やり上げて、スルガの目を見た。

 

「スルガさん、良かったら、俺の部屋来ませんか」