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 パリンと、ガラスの割れる音が夜の路地に鳴り響いた。グラスか窓か酒瓶か、何がどういう経緯で割れたのかは分からない。どこで割れたのかにも、さほど気にならない。その後に続く怒声や悲鳴も、この街の夜を体現する記号の一部でしかない。

 スルガは自分の宿に帰るための最短経路を直進していく。

 暗い路地裏は、相変わらずすえた匂いがした。足元も見えない夜に、建物の側を歩くことは賢明ではない。何が落ちているか分かったものではないからだ。

 通りの道が、人間生活のしわ寄せのような道具やゴミや吐き出されたもので汚れていくにつれて、周辺の宿の値段は下がっていくから暮らしやすくて便利だ。モロクみたいな街と違って、底辺が安定した首都の裏路地は、夜だって狂ったふりをしなくても、誰もスルガの行く道を遮ってはこなかった。

 

 以前、一度、飲み会の後ツイードに送ってもらったことがあったが、あの時は彼をこの辺りまで来させるのは気が引けて、大通り沿いまで回り道をしてしまった。今を思えばあんなことする必要はなかったし、ああいった行いがたぶん彼を苛つかせていたんだろうと思う。

 ツイードは他人を偏った目で見ないけれど、それゆえに自分への先入観にも敏感な節がある。

 

 初めて彼と体を交えてから、数週間が経った。

 そのあいだに何度か、同じように彼と抱き合ったりする夜を過ごした。最高の酒よりも、極上の食事よりも、なにより甘美な体験だ。情事中に彼は例えようもなく魅惑的で、その芳醇な色気に毎回頭がくらくらするほど酔ってしまう。

 

 スルガが彼との逢瀬の約束を周囲の目に触れないところでするようになってからは、彼との関係は驚くほど滑らかに進むようになった。ツイードと自分の間にあった不自然な軋轢は、簡単な小石が原因だったようだ。

 ツイードからの希望というよりもスルガ自身が、これ以上恋人としてのツイードを周囲に発見されたくない気持ちが強くなったことが、すべての歯車を上手くかみ合わせたように思う。

 

 恋人と上手く関係を保てることが、こんなに気分よく生活を過ごせることに繋がっているなんて、今までの人生では知らなかった。

 こんなに愛しく思える恋人が居たことがない。

 そんな感情を自分が持てるという事実だって知らなかったし、そもそもどうして自分が人を好きになれたのか、スルガにはまだその時点のことすら疑問が残っている。たぶん、相手がツイードじゃなかったら、ここまでの経験には至らなかったんだろう。

 

 知れば知るほど、ツイード人間性はスルガにとって新鮮だ。

 おそらく初めはただの一目惚れで、それは顔が好みだとか、声が好みだとか、そういった表面的なものへの好意だけだったはずなのに、ささいな関心から彼の生活を近くで見ているうちに、段々と彼から目が離せなくなった。自分がどうしてこれほどまでに、彼の生き方に魅了されているのか、スルガにはその根源がまったく分からない。こういった興味がなぜ性的関心に結びついているのかも。

 でもスルガは確かに、ツイードと友人ではなく、恋人になりたいと思っていた。おそらく最初から。この惹きつけられる感覚は、どうしたって恋愛のそれだった。

 

 たまたま彼と付き合えることになったからよかったものの、不可能だったら、自分はどうなってしまっていたんだろう。スルガには、もう、ツイードと付き合えない自分の人生が想像できずにいる。

 

(ラッキーだったよなぁ、俺)

 

 裏通りにひときわ大きい笑い声が響いた。限界を迎えた酔っ払いは、何故か歓喜の声に似た音を出す。なんだか今日は騒がしいな、と思いはしたが、さして気には留めずに、スルガはやっと到着した自分の宿をドアを開け、食堂に入っていった。