5-7

 

 シャワーは先にスルガに貸したけれど、彼はすごい速さで濡れて帰ってきた。本当に水でも浴びたのかと思うほどの時間だった。ツイードがタオルを用意してから、シャンプーの位置を教えようとシャワールームに顔を出したときにはもう、スルガがそこから出てきている最中で、「分かりました?」と聞けば、スルガはタオルを受け取って目をパチパチとしただけだった。

 

 ツイードは特に言及することもなく、自分も適当にシャワーを浴びてすぐに部屋に帰ってきた。

 その時には、スルガは首にタオルをかけたまま、ベッドに座り込んでいた。

 

「すっ…………ご、かった………」

 両手で口元を覆いながら、ベッドに腰かけたスルガが大きな吐息と共にそう吐き出す。ツイードはまだ濡れたままの髪をタオルで拭き上げていた。

「そうですか」

 

 服を脱いだスルガを、初めて見る。下はもうアサシン装束のそれを身に着けてしまっているが、上は素肌がむき出しの状態だった。服の上から見て細い身体つきだと思っていたけれど、脱げば結構、硬そうな肉質をしている。

 

(前衛なんだし、当たり前か)

 

「え、微妙でした…?」

 驚いたスルガが顔を上げる。ツイードは空想から我に返って「へ」と彼に答えた。

「いや、『そうですか』って」

「ああ、いや。すっごかったですね」

「余裕じゃん、嘘でしょ、俺もうパニックでしたよ」

 

 自分も大概だったけれどなぁと、ツイードはさきほどの時間を思い返す。部屋の荷物の中から、着る物を探しながら彼に尋ねた。

 

「スルガさん、泊まっていきます?」

「ええ!?」

 上に着る服を用意するかしないかの判断を仰ぐつもりでツイードは聞いたけれど、それにスルガは飛び上がるような大声を出す。

「泊まるのって、有りなんです!?」

「……まあ、狭いですけど、ベッド」

「いや! 全然大丈夫です! 床で寝れます、俺」

「床で寝るなら帰りましょうよ」

 言いながらツイードが薄いシャツを差し出すと、スルガは受け取ってすぐ頭からそれをかぶった。

 服を着てしまえば、スルガの体は着痩せするらしい。惜しいことをしたかもしれない。

「なんか…」とスルガがぼそぼそ口ごもる。隣に腰かけて、ツイードはスルガを見た。

 

「ツードさんって、やっぱめちゃくちゃ上手いんですね」

「え? なんで?」

 セックスの手腕に関してどうこう評価されたことは今までにない。というか、この手の話を本人にするなんて、このアサシンのデリカシーはどんな構造をしている? ツイードは自然と笑ってしまう。

「なんか、前情報ありました?」

「いや、ないですないです」

 スルガは大きく手を振ったあと、気まずそうに視線を斜め下のほうに逸らせた。

「俺の妄想……」

「はは! やっぱ妄想してんじゃん。なーにが一生しなくてもいいですか」

「しなくても妄想は自由でしょう!?」

 予想通りというか、スルガは本当に期待を裏切らないから可笑しくて堪らない。

 しばらくツイードが笑っていると、スルガは「そこまで…?」と眉を寄せて訝し気な目でこちらを見ていた。

 

 ふう、と息を付ける頃には、物言いたげなスルガの視線も幾分か落ち着いていて、ツイードはゆっくりその視線に目を合わせ、緑色の瞳の色を味わった。

 

「……なんか、思ったんですけど、」

 ぽそりとツイードが呟けば、「ん?」と微笑んでスルガが首を傾げる。

「スルガさんの好きって、心地いいですね」

 え、と彼は口では言ったが、顔は嬉しくてにやけてしまったようだった。

 それすら、可愛いことのように思えて、ツイードは言葉を続ける。

「夕方までは、それがぬるま湯みたいで、すっげー居心地悪いなって思ってたんですけど。もしかしたら、ずっと浸かってたいだけかも。逆に、出たら風邪引きそう」

 彼の視線は、彼の愛情に似ている。それを一身に受けていると、スルガの感情を、そのまま浴びているみたいだ。

「クセになっちゃいますね」

 緩く微笑むと、スルガは段々と顔を赤くしていった。

「俺は……ツードさんのそれのほうが、数倍……クセになると、思いますけどね」

「……俺のどれ?」

 いや、それですよ、それ、とスルガは言ったが、なんとなく分かる気持ち半分、彼が好きなそれは本当に自分なのかなぁ思う気持ち半分だった。

 

「ってか、夕方までは、気持ち悪かったんです……?」

「いや、まあ。今は違いますけど、ぶん殴ってやろうかと思ってましたよ」

「なんで!? そんなにです!?」

「ほら、くすぐったい時って、殴りそうになるじゃないですか」

「なるかなぁ!?」

 はは、とまたツイードが笑えば、スルガが不満そうな満足そうなわけの分からない顔のまま、やがて口を閉じた。

 

(結局、俺も欲求不満で頭バグってたのかも)

 

 ほんの夕食前までは、あんなかき乱されていた感情が、今では嘘のように凪いでいる。

 仕方なかったとも思えるし、もう少しなんとかしようがあっただろうとも思える。反省と同量程度の開き直りが、いつもの自分の塩梅で心の中を占めていて、今は平常心を保てているんだなと客観的にツイードは思った。

「ねえ、スルガさん」

 呼びかけるとスルガは目を合わせてくる。

 今はずっと、それを眺めていた気分だ。

「これからは、俺と飯食いたい時とか、飲みたい時とか、一番最初に、俺に聞いてください。教えますから、スルガさんには」

「へ」

 スルガはしばらくぽかんとしていたが、ツイードがその様子さえ穏やかに眺めていると、やがて照れたように申し訳なさそうな顔をした。

「そうは……してるつもりなんですけど、もっと、努力します」

 

 あれでそうなのか、と思いはしたが、まあそうだろうなと理解する気持ちもあった。

 じゃあいっそ、誰の側にも行かないでくれ、という感情がふと湧いたが、さすがにそれは言わなかった。むしろ、自分がそう思ったことに、ツイード自身が驚いた。

 それは、さっきの情事の最中に感じた、抱きたい欲求の延長線上にあるものかもしれなかった。

 

「……なんかごめんなさいね、俺、こんなで」

 思考を巡らせれば巡らせるほど、自分という人間がとことん碌でもない奴のように思えてきた。

「見捨てないで付き合って下さいね」

 するとスルガは、心外だという顔で、真正面からいつもの調子で答えてくる。

「見捨てるって…またそれ、わざと言ってんでしょ。するわけないでしょ、俺が、先に好きだって言ったんですよ」

 

 目の前に、スルガがいる。

 自分のベッドの上で、自分の服を借りたスルガが、自分の事だけを見ている。

 そのことに、こんな心地よさを見出す日が、来るとは思っていなかった。

 

「んー。スルガさん、やっぱいいなぁ」

 

 

 

5-6

 

 触れた唇は、熱かった。

 位置を確認するためだけに頬に置いたはずの手に、ぐっと力がこもる。

 ツイードが舌先でちろっとスルガの唇を舐めると、すぐにスルガが彼の舌を差し入れてきて、口の中奥深くで溶け合うようになった。

 舌を絡めるキスで、こんなに長く続けていられるやり方があるんだなとツイードは思う。

 犯すようなキスでもなく、せがむようなキスでもない。スルガのキスはいつも柔く、熱く、ぬめるのに、しなやかだ。

 やがて、舌先が少し痺れだしてから、ツイードは唇をゆっくりと離した。

 ハ、と近くで、スルガの息が聞こえた。

 

 間近で見るその火照った目に煽られて、もっと口付けてみたくなる。ただ、咽喉が痛いほどぎゅっとこわばっていて、その力をほぐすためにツイードは一旦、キスの続きをやめた。

 スルガが唇に手の甲をあて、視線を下にそらせて瞬かせる。

 

「あーーーすっげえ緊張するーーーーーッ」

「…なに言ってんですか、今さら」

 

 言いながら、ツイードも自分の息が荒くなっていることに気づく。さっきまで普通だった心臓が、突然存在を主張し始めていた。

 

「やばい、俺、こんな緊張してからすんの、初めてかもしんない…。し、心臓が、ほら」

 スルガは自分の胸に手をあてていて、その脈拍に、手の平ごと振動で揺れているのが見えていた。

「うわぁ」

「全力で走っても、こんなん、なんないですよ」

「ですか…。え、どうします? 水でもかぶってから帰ります?」

「なんで!? 帰んないですよ!?」

「じゃあ、続き、します?」

 言いながらツイードが顔を近づければ、スルガは「あ…」と声を漏らしてから、目を閉じてまた口付けに応じた。

 何度も柔く撫で上げる彼の舌が気持ちいい。深めれば深めるほどに、身体が麻痺していく感覚がする。

 唇を放すたび、離れるのが名残惜しい気持ちだ。

 ツイードは思わず、言葉をこぼす。

「……やば」

「…へ?」

 蕩けた目で、スルガが聞いた。

「……もっと、あっさりめに、するつもりだったのに」

「なにが…?」

 囁くような声でスルガが尋ね、彼の手がツイードの首に触れる。

「けっこう、やばいですね、これ」

「……、ですよね…俺、ツードさんのキス、すごい好きかも」

 これは、スルガのキスだろう、とツイードは思ったが、そんなことはどうでも良くなってきていた。

 耳の奥がキンとするほど、痛い欲情に体が痺れてくる。

 ツイードは、スルガの太腿に触れ、服越しにそこを撫で上げながら、ゆっくりと中心に向かって手を伸ばした。確かめようと思っていたその場所は、既に熱を持って硬くなっていた。

 

(あ、もう勃ちかけ)

「うわっ」

 スルガが身をよじる。

 

「え、え、い、いいんです? それ」

「だめです?」

「だめっていうか、ツードさんが、俺の…! うわ、待って、やばいやばい」

 彼の言葉を無視して、その熱を何度か擦り撫でた。それは、どんどん硬くなって、形がはっきり触って取れるように膨らんできた。

 ここまでになると、衣服の圧迫が辛そうだ。

 

「脱ぎましょーか…痛いでしょ」

「いやッ、自分でやります! 俺、」

「なんで? 俺、やりたいですけど」

「~~~ッ!?」

 

 騒ぐスルガをよそにツイードはベルトに手を掛けた。自分のに比べれば随分とシンプルな造りのバックルで、スルガのベルトは簡単に外れた。前を寛げてやれば、勃ちあがったそれが布を押しのけて、ほとんど弾けるように飛び出してくる。

「ひッ」

「…あー…」

 思わずツイードは呟いて、腹に付かんばかりのそれをしばらく眺めてしまう。

「……すっげー……勃ちますね」

「あの、あんまマジマジ見られると…」

「いやぁ、俺の、もしかしたら、ご期待に添えられないかもしれないですね……」

「まじで、恥ずかしいんで…」

 スルガは声を小さくしたが、むしろ堂々としていいのでは、とツイードには思えた。

「えっと、触ってもいいです?」

「いまさら…!?」

 ツイードは、広げたスルガの両足を手で押さえつつ、彼の顔を見上げる。スルガは眉を寄せ、渋い表情でぼそぼそと言った。

「俺も、さわらせてください。ツードさんの……さわりたいです」

 それを聞いてツイードは、満たされた気持ちで浅く笑う。

 触れたその熱をやわく押さえながら、ゆっくりとスルガに近寄り、耳元で「いーよ」と囁いてみた。

「……ッ」

 分かり易いほどスルガが身体を収縮させ、けれどすぐ彼の腕はツイードのベルトに伸びてくる。

 スルガがそれを外そうと力を籠めるが、留め具のピンが中々緩まらず、何度かカチャカチャと音が鳴った。

 こちらのほうも見ずに、自分の下腹部を一心に見るスルガの視線が、ツイードには少し面白い。手の中の熱を、ぎゅっと握りしめてみる。

「っ、まって…!」

 スルガは、躊躇いではなく、制するような声を出した。

 ああ気持ちいいんだろうな、とツイードには分かる。身に覚えのある形だが、触っている感覚がするのに触られている感覚がないことがなんだか不思議だ。自分と同じような場所で、同じように感じるのだろうか。湧き上がる興味が抑えきれない。ここまで硬いと、痛いだろう。

「ねえ、これ先に抜いちゃいません?」

「いやですッ、俺もさわりたい…!」

「はは、一緒にさわって一緒にイくんです?」

 からかってツイードが笑うと、スルガが真剣な口調で「そーですよ!」と返してくる。

 一瞬、スルガがツイードのほうに顔を向け、視線が合った。

 彼は大まじめに言っているらしかった。

 照れた表情の中にも、性欲に寄った熱意を感じる。

 

(やばい、抱きたい)

 

 ツイードの頭は、突如その感情に支配された。

 

(嘘だろ、すげえ抱きたい、やばい)

 

 抱く? どうやって。分からない。自らその手段を封じてしまった今となっては、ツイードがそうすることは叶わない。

 今はただ、彼の熱に触れることしかできない。

 もどかしさで、頭が焼けそうになってくる。

 

「…っ」

 スルガがベルトを外し終えたらしく、下半身の布が緩んだ。手荒に下着がずらされる気配がして、彼の手が自身の熱に触れる。その覚えのある感触の切れ端が、いっきにこれから起こる快楽の記憶を呼び起こしてくる。その快感がもっと欲しくて、ツイードは咄嗟に手の力を強める。握っていたそれを、もっと明確に擦りあげた。自分が欲しいのと同じ分だけ強く刺激すると、スルガが震えた声を上げながら、肩に頭を預けてくる。

「……ッ、ま、…ふ、ツードさん…っ」

 気持ちよさそうに額を擦りつけるスルガは、乱されて手の力を上手く扱えないようだった。次第にツイードを掴んでいた握力が弱まって、快感が逃げていく。それを追いかけるように、ツイードはスルガに踏み込んでいった。

「っ、あ…、ちょ、まって、ツードさん、いやだ、たんま」

 スルガは反対の手でツイードの肩を掴んだ。

 

 ぐっと身体が引かれて、スルガの唇に、噛まれるように口付けられる。

 突然やってきたキスと彼の舌に、ツイードはバランスを崩して後ろに手をついた。そのまま伸びてきたスルガの両腕を受け止めて、顔の角度をキスに合わせる。唇や舌だけでは性急さだけを焚きつけるようで、直接的な刺激に繋がらず、もどかしさで焼ききれそうなのに、もっと深くを求めてしまう。

 スルガの無遠慮なキスが堪らない。ツイードを求めてあがく姿に、ますます掻き立てられて息が苦しい。

 やがてスルガが唇をゆっくりと放し、けれどほとんど触れたままの距離で「俺ばっかじゃ…なくて」と言った。

「ツードさんと、したいんです」

 スルガの手がツイードの下にまた伸びる。軽いキスを何度も落としながら、スルガは蕩けるように呟く。

「もう、混ざっちゃいたい…」

 

 正直、その気持ちが痛いほどわかる。

 でもそれは結局、抱きたいと同義だろう、とツイードは頭の遠くの方で思った。それを言及しようにも、ツイードのコントロールはとっくに理性から欲求にハンドルを明け渡してしまっていたので、言葉も出て来ず、浅い息を繰り返すしかできない。

 酸素が、碌に入ってこない。そのせいで頭がぼーっとする。

 心臓の鼓動が、時計よりも早く脈を刻むせいで、時間の感覚が鈍って狂っていく。さっきからずっと、この加速したような時間の中で呼吸して、ゆっくりと溺れているみたいだ。

 

「わ、かりました、から…」

 ツイードは掠れた咽喉から、必死に音を絞り出す。

「わかったから、じゃあ、こっち、俺に擦り付けて…?」

 スルガの腰を抱いて、自分の身体に近づけた。スルガの肌が、直接触れる。

「……っ」

「一緒にでしょ…? こう、一緒にすれば、ほら…」

 スルガの手を、自身の熱に誘導して、彼の指がそれに触れる感覚に、自分でぞくりとなった。思わず、スルガの手を自らの手で覆って、強く擦ってしまう。

「あ、あ、ツードさん、やば、まって、え、」

「……ふ、…あ、スルガ、さ…、やばい、いっしょに…、早く、俺の手に置いて…」

 スルガを抱き寄せて、ツイードは自分の手に彼を当てつける。それはもう、信じられないほど硬くて、熱くて、はちきれそうだ。辛そうだとツイードは思った。こんなの、痛いだろうし、辛いだろう。

 楽にしてやりたい。

 そして何より自分自身が、早く楽になりたい。

 息が足りない。

 夢中でそれを握り、導くように強く擦る。

 肩を握ったスルガの手が、ぎゅっと爪を立てる。宙に浮いた彼の腰が、ひくつくように揺れていた。いや、振っているのかもしれない、とそう思った瞬間、脳の中でとんでもない快感の汁が溢れ出たのが分かった。

 「……ぁ、う、つ…どさん、ツードさん、も、むり、…イきそ」

 スルガの吐息が乱れ、切ない声が漏れ聞こえる。

 ツイードは自分の口からどんな言葉が出ているか、もうまったく意図できない。

 感じたことのない快感なのに、どこにも届かないもどかしさだけが、身体の芯から先まで全部を支配している。

 強くしてほしい。もっと強く。もっと欲しい。

 スルガの熱を強くでたらめに握って、激しく思い通りにする。自分のもそう扱ってほしい――という願望が、上手く叶わず、違う種類の刺激だけで頭を直接摩擦されているみたいだ。

 もどかしいのに、気持ちがいい。

 もうだめだ。最高だ。頭が痺れて、溶けて、なくなりそうだ。

「つーどさん……ッ、も、イってい? おれ、イっていい? でそう、むり」

 部屋の中はいつの間にか、お互いの音だけで充満している。

 音も身体も、ぐちゃぐちゃになっている。

「…っ、いーよ、はやく……」

「むり、それ、いいか、らぁ、あ、ぁ…ッ、ぁああッ、~~~~……ッ」

「……っ」

 声を共に、彼の身体が大きく震えた。

 手の中で、スルガの快楽が溢れ出たのを感じた直後、彼の身体を抱きとめて、ツイードも欲望をそのまま彼の手に吐き出した。

 身体中が痺れて震え、気が狂うほどの快感を伴う、人生で一番の吐精だった。

 

 

 

5-5

 

「俺……今、なんで謝られてます……?」

 スルガは、困惑したまま半笑いで首を傾げていた。

 

「え。さあ、なんででしょうね」

 結論が出たツイードは、自分の中の折り合いがついたものだから、頭の中の荷物が全部きれいに片付いたせいで、細かいことはどうでもよくなった。不安がるスルガを、また可愛いなと思える心のゆとりまで生まれる。

 煙草が吸いたかったけれど、あいにく手元にそれはなく、仕方なしにビール瓶にまた口を付けた。

 

「これって、初めのゴメンナサイの意味じゃないですよね?」

「初めの?」

「ほら、俺が告白したら初めにツードさんが言ってた、OKじゃないほうのゴメンナサイですよ。違いますよね?」

「そうですね」

「大好き、って意味ですよね」

「え、そうかな」

「好きって、今言いましたよ、ツードさん」

「言いましたね、俺。俺って、スルガさん好きだったんだなあ」

 

 スルガはツイードの腕を持ったまま、今の状況の意味がまったく分からないという顔をしている。

 

「俺……てっきり、デートだと思って……」

 話し出すスルガに向かって、ツイードがベッドの隣を手でトントンと叩いてやれば、彼は大人しくそこに腰を下ろした。彼の体重分、ベッドのマットが沈み込む。

「そしたら、なんかめっちゃ真面目な話になるから……、ビビりましたよ……」

 すみません、とツイードは謝ったが、初めからこの話だと告げてここに来たら彼はもっと『ビビって』いたんだろうな、と思うと、どうにも可笑しくて表面だけの謝罪になった。

 

「でも、びっくりしたけど、結果的に、嬉しいかも」

 片手で口元を多い、照れ隠しのように視線を壁へ向けたスルガを見て、ツイードは素直に『良かった』と思えた。にやけた彼の口元が、愛らしいとすら感じた。

 

「好きですよ」

 ツイードはそれを眺めていただけのはずが、気づけば自然とその言葉が口をついて出る。

 ん、と小さく、顔を赤くしたスルガがむせた。

「遅れちゃって、申し訳ないですけど。俺、馬鹿だから、時間食いましたね」

「え? ツードさんが? どこが?」

「あー……話すと長いんですけど、まあ」

 

 ツイードはぼんやりと天井を見上げ、そのまま言葉を止めた。濁したというより、正しい言葉が見つからなかった。

 今、おそらく、一番晴れやかな気持ちで素直にスルガが好きなので、些末なことに頭の容量をさく気が起きない。

 スルガが隣で、安心したように大きな息をついた。

「マジで、一生セックスできないのかと思った……」

 本当にな、とツイードはその横顔を見る。実際にしないつもりも無かっただろうが、覚悟だけでよくあれを言ったな、と感服する気持ちが強い。

 その覚悟に報いたい、と思うものの、しかしどうしても報えない、というのもまたツイードの中での事実だった。

 

「あー、でも、そういう問題じゃなくても、できないと思いますよ、俺は」

「え!?」

 スルガは飛び上がるようにベッドから立ち上がる。

「今までの話、なんだったんです!?」

 目を見開いた彼がこちらに迫ってくるので、ツイードは思わず身体をのけぞらせた。

「え……、俺、できないって、ずっと言ってますよね」

「でも、俺のこと好きって!?」

「いや、好きですけど」

 手で制すると、スルガはゆっくりその身を引いた。

「好きに――なっても、ケツは嫌です」

「ブ……ブレない、なあ……」

 

 ツイードが再びベッドをトントンと叩くと、スルガは放心したまま、同じようにすとんと腰を下ろした。

 座る速度が速いわりに、こちらに衝撃が伝わってこないな、と感じる。アサシンはみんなこうなのか、と関係ない疑問をツイードが思い浮かべる中、スルガは頭を抱えたまま、絶望的な声を出した。

 

「……めちゃくちゃ、分かるだけに、俺……なんにも言えないんですけど……」

「めちゃくちゃ分かるんですね」

「分かりますよ、そりゃあ」

 

(そんなに分かられると、困るんだけどなぁ。別の意味で)

 

 ということは、スルガのほうも嫌なんだな、という結論にツイードは達する。厄介だ。打つ手がない。

 ツイードはしばらく唇を親指で押さえつつ思考を巡らせ、『いや、打つ手がないこともないか』と思い直した。

 ゆっくり首を傾けて、スルガの顔を覗き込む。

 

「スルガさん、どうしても挿れたいです?」

「え…っ」

 ぱっとスルガが期待めいた顔をあげるが、その表情に流されないように、ツイードは先に言い含めた。

「いや、期待しないで聞いてください。俺とキス以上のこと、したくないですか」

「……し…」

 目の前の顏が赤くなりながら、何度も瞬きが繰り返される。

「……したい、けど」

 その言葉を聞いて、ツイードは思いのほか心臓の鳴る満足感を得た。その余韻のせいで反応が少し遅れたものの、予定通りの言葉を続ける。

 

「じゃあ、合意ってことで」

「へ?」

「予定とかないですよね、この後」

「……ないです……あっても空けます」

 茫然と呟くわりに、とんでもなくちゃっかりした返答だ。ツイードは思わず口元に笑みを浮かべる。

「じゃあいいですね」

 こくこく、と頷くスルガが、口を開いたままこちらに尋ねた。

「え、でもそれって、結局、どういう意味です…?」

 ツイードは立ち上がって、ビール瓶をテーブルに置く。

「一生できないなんて、嫌だからな、俺は。ようは、どっちもケツ使わなきゃいいんですよ」

 首を鳴らせつつ後ろを振り返ると、スルガがじっとこちらを見ていた。

 

「マジですか」

 理解したスルガが、ぽそりとそう言い、

「マジですね」

 ツイードがそれに答えて頷いた。

「嫌です?」

 

 

 

5-4

 

 宿は、酒場の目と鼻の先にあった。

 古いがシンプルな造りの安宿で、入口の掲示板以外は壁に何もかかっておらず、カーペットすら敷かれていない。

 ツイードの借りている部屋は、三階の廊下の突き当り右手側だ。

 狭く長い廊下を歩くツイードの後ろを、スルガは黙って付いてきた。酒場からここに来るまで、会話らしい会話はない。

 

 預かりっぱなしの鍵でドアを開けている途中、とりあえずの礼儀でツイードはスルガを振り返って言った。

「まあ、散らかってるんで、申し訳ないんですけど」

「あ、い、いえ」

 

 制止するように両手を振って見せたスルガの声は、少しだけ上ずっていた。頬が赤い。

 

(これって、期待させてるよなあ)

 

 酒場でするような話ではないかと変えた場所だったが、話の内容からいって、こんな時間にこんなところへ誘うのは酷だっただろうか。

 ドアを押し開けて、スルガを中に迎えながらその後姿をツイードはぼんやり眺める。

 相変わらず、形のいい背中だ。

 

 ツイードは部屋のランプに明かりを灯し、それを壁に掛けた。その間中、部屋の中央で不自然に立ち止まっていたスルガが、しばらく部屋の荷物を見ながらぽそりと呟いた。

 

「紙、多いですね」

 紙? ツイードはスルガの視線の先を追う。

 部屋の隅にある小さなデスクやその周辺に積んである本たちのことだろうか。確かに書きかけの書類は放り出されているし、読みかけの束が本の間にも挟まっているし、机上に収まらない雑誌の類は縛って床に置いたままになっているから、紙と言えば紙なのか。

 そんな表現をする人間をツイードは初めて見たが、この部屋に他人を入れたのは初めてだから、それが変わった感想なのかどうか推し量るすべはない。

「すみません、片付け苦手で」

 招くことを想定としていない部屋だったから、いくつか服も掛けたままだったし、窓際のテーブルには保存食や道具が置いてあるままになっている。

 

 そう言えば、この部屋には人を座らせる場所がない。

 

「あー…まあ、適当に、この椅子でも使ってください」

 デスクについた小さい椅子をテーブルの隣に運んで、ツイードはスルガに席を勧めた。上にある荷物をまとめてどかせてから、買ってきたビール瓶をそこに置く。

 元々、ベッドサイドテーブルとして使っていた机だったから、ツイードはすぐ側のベッドに腰をおろした。

 椅子に腰かけたスルガは、何故か足を揃えていた。

 

「ツードさんの部屋って、こんななんですね」

「え」

 周りを見るスルガへ、ツイードはビールの栓を抜いてからそれを渡す。

「なんか変ですか」

「いや、なんも変じゃないです、普通です。でもツードさんの私物がいっぱいあって……いや、普通なんですけど、それも」

 彼の言わんとしていることは分かる。

 けれど、今ツイードが頭の中で巡らせている別れ話の切り出しと、スルガの喋る内容はどうにも乖離しすぎていて、なんだか現実味がなかった。

 

 ツイードは、自分のビール瓶を片手に持ち、おもむろに一口だけ飲み込んだ。さっきのワインより味がしない。

 

「ツードさん」

 スルガが少しだけ改まって、自分の名を呼んだ。

 視線だけ上げると、彼の目の意外な引力に捕まって、ツイードは目が離せなくなった。

「これって、キスとかしても、いいやつですか」

 

 スルガはこちらを伺うように、淡く柔らかい笑みを見せる。

 彼の声の響きが、甘い。

 ツイードは『しまった』と思う。

 これは考えていたより軽率で残忍な行為だった。彼の期待をまた断ち切らなければならない。もうスルガを無闇に傷つけるのは終わりにしたかった。

 早く言わないと。

 ツイードは一度唾を飲み込んでから、口を開く。

 

「別にキスぐらい、いつでもしていいんですけど、でもさ」

 ツイードの言葉に、スルガが「え」と照れたように表情を止めた。違う。頼むから最後まで聞いてくれ。止まらずに続けて動かす口からは、乾いた声しか出なかった。

「俺、たぶん、スルガさんの恋愛に、応えられないんですよね」

 

 スルガはしばらく、言葉に迷っていたようだった。それから、散々悩んで、彼は一度開いた口を、何も発しないまま閉じた。

 スルガの顔が見れなくなって、ツイードは視線を床に逸らせる。

「スルガさん、俺に付き合うの、勿体ないと思いますよ」

 

「……何が?」

 ようやく聞けたスルガの声は、慎重さと不安さに揺れている。

「何っていうか。時間とか…。感情とか、親切さ……とか」

 勿体ないという単語は、不適だったかもしれない。もっと根本的に、こんな関係はやめたほうがいいと思える根拠がツイードの中には確かにあるのに、それが上手く言葉になって出てこない。

 スルガは何度か、首を振った。

「そんなこと……絶対ないです」

 椅子に座っていた彼が、立ち上がってツイードの側に寄る。座ったままの自分に少しかがんで、彼はこちらの目を見ようと体を傾けた。

「俺、ツードさんと付き合ってて、前よりツードさんのこと、好きに……なってる気がします。だから別に、今すぐ応えられないとか、そういうことは、どうでもよくて」

 

(……違う)

 たぶん、彼はこの話を、セックスのことだと勘違いしている。

 でも、その観点から言っても、自分の結論は同じだろうとツイードは思う。

 だったら彼の分かりやすいほうの話で構わない。

 

「スルガさんは、結局、俺とヤりたくなんないんですか」

 ツイードがスルガのほうを向き直り、その目を見て言うと、スルガは身体を少し後ろに引いた。

「な」

 目が僅かに見開かれ、羞恥に歪んだスルガが視線を窓に逸らす。

 

「……りますけど、……そういうのは、俺のほうだけじゃ……」

 

 スルガが、ツイードの前でそれを認めたのは、初めてだった。

 でも彼の口から直接聞こうが聞くまいが、ツイードには分かっていた。

 スルガの目。

 強く、劣情を携えた瞳。その視線の奥にはきっと、触れると熱いぐらいの感情がある。全部、自分に向けられた、熱量を持った感情だ。

 彼は自分を抱きたいのだろう。

 そんなのは、キスをしたときから、ずっと知っていたことだ。

 

 そして自分は、それに応えることに、根本的な拒絶を感じている。

 相手が誰であろうと、絶対に、自分は誰かに抱かれたりしない。その意思は何があっても変わらないだろうし、誰にもその尊厳を踏みにじられたくなかった。

 

「でも俺、たぶん一生その気になりませんよ」

 

 断れば、スルガがまた、あの顔をすることは分かっている。

 このまま付き合い続けていれば、これからずっとスルガをそうさせる。

 そのたび自分は悪者になって、スルガは踵を返し元来た場所に戻っていくんだろう。

 心がザリザリする。

 もう、うんざりだ。

 

「スルガさん、一生できなくていいの、セックス」

 

 言葉はもう宣告に近い。

 それでスルガが、そんなのは嫌だと言い出せば、それで好都合だと思えた。彼が自分で気づいて、自ら離れていって欲しい。ツイードの卑怯さに軽蔑して、二度とこちらに踏み込まないで欲しい。

 

 窓の外から、ガラガラと車輪が回る音が聞こえてくる。

 プロンテラの夜は暗くて静かで、遠くの気配だけが騒がしい。

 会話には間があった。

 しばらくして、スルガがゆっくり口を開いたのが、ツイードの視界の隅に映った。

 

「どうしてですか」

 

 彼の声色は、平坦だった。思いのほか落ち着いたその声に、ツイードは彼を見上げた。

 その表情からは、何故か戸惑いの色が消えている。スルガは正面にツイードを捉えて、強い目でこちらを見据えていた。

 

「逆に、ツードさんはいいの、それ」

「なにがです」

「一生、セックスできない人生」

 

 なんで、と尋ね返しそうになって、ツイードは言葉を止める。

 そんな発想、考えつきもしなかった。 

 そして今考えてみて、そんな人生、たまるか、と強く思った。一生誰とも手を取り合わず、肌を重ねず、夜を共にしない。永遠に暗い夜のまま、溝に落ちたドブみたいな人生だ。

(冗談じゃない)

 しかし、ツイードは同時に、自分の矛盾にも気づき始めた。

 自分の言った言葉の意味は、つまりそういうことだ。

 スルガがセックスできないなら、恋人である自分も一生できないのだ。思いつきもしなかった。なぜ、初めからそれを考えなかったのだろう。

 抱かれたくないという確定意思のことは、誰より自分が一番理解していたはずなのに。

 

 つまり付き合うという約束を違えない限り、そうあり続ける。

 自分はどうしたってできないことで、スルガがそれでもいいと言って、この付き合いは始まった。

 

 

 スルガが一歩、ツイードの側に寄った。その歩みに、床がギ、と音を立てた。

 彼は右手をのばし、そして、ツイードの左腕を服の上から握りしめた。

 

「………俺は、ツイードさんが恋人なら、一生できなくても、いいです」

 

 スルガの目が、今にも泣きそうなように、ツイードには思えた。

 

(この人は最初から、そう言っていたんだな…)

 

 ツイードはそれに今更気づいた。

 あの告白は、そういう意味だった。

 別れたくないと、きっと言われるだろうと考えていたはずなのに、実際のスルガを見てしまうと、上手く息が吸えなくなる。

 

「ツードさん、俺のこと好きになんないの…?」

 

 いつの間にか、ツイードのもう片方の腕も、スルガの手に捕まれていた。

 縮まった距離に、声の音はどんどんと小さくなっていく。

 スルガの両手に、ぎゅっと力がこもった。

 俯いた彼が、小さく、心もとない声を漏らす。

 

「俺のこと、好きになって…」

 

 彼の声は擦り切れそうだ。

 ツイードの咽喉は、締め上げられたように引き攣って痛くなる。

 

 体の中で、心臓がバクバクと動き始めた。

 胸の鼓動が痛いぐらい音を立てている。

 脈拍が、耳でも感じられるぐらい、激しく。

 体中が熱い。

 

(こんなの……)

 

 今、自分は、大きな岐路に立っている、とツイードは思った。

 頭は熱いのに、背筋だけは異様に冷たい。

 その選択の答えに、手を伸ばすのが恐ろしかった。

 

(俺は……)

 

 たぶん、この痛さは、心の渇望だ。そんなもの要らないと拒絶していたのに、本当は奥底から求めていたものが、たぶんこれなんだろう。

 

 いや、分からない。

 自分がどうなっているのか、どうなってしまうのか。何も。まったく分からない。

 顔を上げてくれ、とツイードは思う。

 目の前でスルガが、詰まった息を吐くのが、苦しくて仕方ない。

 もう、こんなのは、嫌だ。何を捨てたっていいなら、自分が捨てようとしていたものは、全部間違っていた。

 これ以上、この人が傷つくのを見たくない。それを見て、自分自身が傷つくのだって、まっぴらだ。

 そんな人生、自分が本当に望んでいたものじゃない。

 この人が欲しい。

 別れるなんて、間違っていた。

 

「俺はたぶん……」

 

 ツイードは息をのむ。言おうとして開いた唇が、微かに震えているかもしれなかった。力の入れ方が、もはや分からなくなっていた。

 

「もうとっくに好きなんです、スルガさんが」

 

 スルガがゆっくりと顔を上げた。

 彼の眉は寄せられ、口元は薄く開き、声が出ないようだった。けれどその顔には、確かに、安堵の表情が浮かべられている。彼の瞳に、自分の顔が映っていた。

 

「ごめんなさい。好きです、スルガさん」

 

 自分はずっと、これが見たかったのだととツイードは気がついた。

 

 

 

5-3

 

 外はもう、すっかりと夜になっていた。

 最後に食べた食事は、狩りがひと片付けした後に取った随分と遅い昼食で、そのせいか今はまだなんの空腹も感じない。

狩りをしていると、こういう日ばかりになる。たまり場の打ち上げに参加する夜なら、適当に肴をつまんでいたらそれで事足りるのだが、一人の夜はどうしても夕食に悩んでしまいがちだった。

 結局、ツイードは自分の宿から近い行きつけの酒場へ足を運んだ。

 一人で飲む酒は決して美味くないが、腹も減らない時に一人で取る食事よりは、まだいくらか味がするだろう。

 

 辿り着いた夜の酒場は、日も落ちた今が盛りの時間帯で、多くの冒険者の客がそれぞれのテーブルで賑わい、店内はほどよいざわつきに包まれていた。

 ツイードは入り口近くのカウンターに腰を下ろすと、一番安いオードブルとワインを頼む。口髭を蓄えた店主は、無言でそれに頷き拭いていたグラスを置いた。

 

 大衆酒場の前菜は感心するほど早く、露店売りの床に並べられた商品のような乱雑さで、皿の上に乗せられて出てくる。

 オリーブの酢漬け、アンチョビ、ベーコンにスモークチーズ。どれも腹が膨れるものではなかったが、今のツイードの胃には十分な量だった。全体的に暗い色をしたそれらの一つにフォークを突き立てる。

 

 なんだかすっきりしない気持ちなのは、今日の打ち上げを断ってしまったからだろう。

 おまけに教会にまで寄ってしまって、ツイードの今の感情はノイズが激しくなっている。オードブルよりも雑然とした脳内の言葉たちも、一つずつ摘まみ上げて口に放り込めれば楽だろうにと、無駄な空想を頭に巡らせた。

 

 食事を断った時の、俯いたスルガの顔を、ぼんやりと思い出す。

 

 こういうざらざらした怒りを、スルガにぶつけるのはお門違いだ。

 伝えもしていない自分側の問題のせいで腹を立てられたら、彼もたまったものではないだろう。

 丁寧で誠実なスルガの態度と、それをどこか綺麗事のように感じている自分。

 自分の手を引くスルガの肌の感触や、抱きしめて口づけた首元の感触ばかりが心地よくて、いっそそれ以外は全部わずらわしいもののように思えてくる。

 本来ならそんな斜めに歪んだ感情で、彼に向き合うべきではないんだろう。

 あの人はもっと大切にされたほうがいい。

 

 自分は、悪いことをしているのだろうか。

 ツイードには、もう分からない。

 

(これ以上踏み込まれたら、俺、まずいな……。振り払って、殴りそうだ)

 

 ツイードは頭を抱え、大きく溜め息をついた。

 視界に入ったグラスのワインは、気づけばカラになっている。デカンタにすればよかった。

 追加の飲み物を頼もうか悩みながらツイードが顔を上げると、端にある入り口のドアが開き、外の冷えた空気がカウンターに入り込んで来る。

 席を空けるべきか、と戸口のほうを見たツイードは、入ってきた冒険者の姿を確認して、その動きを止めた。

 

 そこにいたのはスルガだった。

 店内を何度か見渡した彼と、途中でばちっと目線が合う。

「あ」

 

 少し申し訳なさそうにはにかんだスルガの顔を見て、ツイードの内心は、突然重いものを乗せられた天秤の針のようにガタガタと揺れ始める。

 乱れた感情は、驚きや怒りや呆れの中に、なぜか安堵の気配が混ざっていた。

 

「えっと、……すみません、こんばんは」

 近寄ってきて自分の隣の椅子に腰かけたスルガを、ツイードは茫然と眺めていた。

「なんで、ここ」

 口から漏れた疑問に、スルガがおずおずと答える。

「えっと…、サラエドさんに教えてもらって」

「えっ? 来てました?」

 普段はたまり場に来ない友人の名前に、ツイードは尋ね返した。

 スルガは、「あー…、飲み会に顔だしてて」と頬をかいた。

「あんま話したことなかったんですけど、今日は席が近くて、仲良くなって…」

 

(人たらしかよ)

 

 誰とでもすぐ打ち解けるのか、このアサシンは。

 サラエドは、どちらかというと警戒心の強いタイプのハンターだ。表面上はヘラヘラ笑っていても、腹の内はあまり明かさない。その彼が、この酒場をスルガに教えたという事は、よほど気に入られたんだろう。

 

「……ツードさん、遅くなるからってだけで、俺と飯食うのが嫌ってわけじゃないっぽい言い方してたんで……。あの、すみません、急に来て」

「…………いえ、全然」

 上手く、言葉にならなかった。

 別に必ずこの酒場に来るわけでもない。ここに来たからといって自分に会える保証はなかった。それをスルガも理解していたはずだ。無駄足になる可能性もあったのに。

 

「用事、どうでしたか」

「あ、終わりました」

「飯、もう食っちゃいました?」

「いや、これが夕飯ですね」

「マジですか? ツードさんって意外に物食いませんよね」

「そうです? そうかなぁ」

 そんなこともないですけど、と口から声を出しながら、ツイードの言葉は感情の表層を滑っていく。

 何故かは分からない。

 そもそも、スルガがどうしてここに来たのかも分からない。

 答えのめどは簡単につく。彼はもちろん、自分と食事がしたかったんだろう。

 でも、じゃあ何故。

 それはもちろん、自分の事が好きだからだろう。

(だったら、それこそ、どうしてだ)

 

 

「ツードさんがここにいるうちに、来れてよかったです」

「打ち上げ、早く終わったんですね」

 ツイードが顔を上げると、スルガは「はは」と照れ笑いして、視線を横に逸らした。

「みんなに追い出されて、抜けてきちゃったんです」

 はにかむスルガを見て、ツイードは声が出ない。

 自分の感情が、今また無理やり床に押さえつけられて、上から踏まれたような強さで震えているのが分かった。

 このアサシンの背を押すのは、いつも自分じゃない。自分では、俯かせて小さくさせるばかりだ。あのスルガをみていると、頭の奥が絞られたみたいに痛む。

 いつのまにか、スルガの『可哀想』が、『可愛い』と思えなくなっている自分に、ツイードは気づいた。

 

(もう、駄目だ。別れよう)

 

 その結論は、ひらめくようにやってきた。

 そう考えたあと、何を今更こんなことを思いついたみたいになっているんだ、とも思った。

 その結論はもうずっと前から、ツイードの中で決まっていたことのように思う。

 自分がまともに他人と付き合えるわけがなかった。結局、振り回して、振り回されただけだった。

 

(早いほうがいい。言うなら、もう今夜でいい)

 

 スルガのことだ、別れても、みんなに慰められるに決まっている。片思いで付き合って、数ヶ月ですぐフられて、泣きながら酒を飲んで、それを仲間に慰めてもらう。そういう一連の流れすら、なんだかもうスルガらしいではないか。

 

「ツードさん?」

 スルガがツイードの顔を覗き込む。

 ツイードは、手で押さえた額を無理やり上げて、スルガの目を見た。

 

「スルガさん、良かったら、俺の部屋来ませんか」

 

 

 

5-2

 

 実際のところ、今日やらなければならない用事なんて本当はなかった。

 プロンテラの街を散漫に歩きながら、ツイードは暮れかけの空を見上げる。

 行く当てはないが、このまま帰るのも嘘をついていたみたいでなんだか嫌だ。仕方なく、ツイードの足は教会へと向かう。少し前に提出した書類の確認がそろそろ終わっているはずなので、修正する仕事ができているだろう。

 

 大通りを北上し、噴水広場を通り過ぎているあたりで、この間の夜のことをなんとなく思い出す。

 こちらの手をぐいぐいと前に引くスルガの後ろ姿を。

 熱くなった耳、汗ばんだ掌、振り返った時に光った眼、歯の見えた口元、首元、咽喉、その下の服越しに見える鎖骨。じかに触ったスルガの肌は、しっとりした熱気を孕んでいた。

 最近、あの夜のスルガをこういうふとした拍子に思い出してしまう。

 

 スルガは、どうして自分を好きになったんだろう、とツイードは時々考える。

 それは、スルガが好きになったものは本当に自分なんだろうか、という疑問に似ていた。

 外面は本当の自分じゃないなんていう思春期じみた感覚ではなくて、もっと本質的な迷いのような感情だ。

 人間関係を円滑にするための愛想や、多少交えた方便のような嘘だって、自分自身だとは思うが、それは他人にも食べやすいように味を調えて出した一部であって、アクや臭みは全部抜いた後の産物だ。

 スルガは、それを知っているのだろうか。

 逆にツイードは、スルガのそれを知らない。

 

 黙々と歩いて教会にたどり着いた頃には、玄関のランプに灯がともるような時間になっていた。

 庭から裏口を通り抜けて目指すのは、いつもの書庫だ。

 軋む木製のドアを開け中に入ると、書官のアコライトが一人、デスクから顔を上げた。顔なじみだ。

「ああ、お疲れ様です」

 アコライト、ナツキはそう挨拶だけして、すぐに愛想もなく書き物に戻った。そして机に目をやったまま、手だけで入口隣の台を指差しして言う。

「できてますよ、そこです」

「あー、ありがとう」

 書類の束を持ち上げて、ツイードはパラパラとそれをめくり始める。

 

 どうという事はないまとめのレポートだった。自分の字でびっしり埋め尽くされた紙を眺めていると、内容のできよりも『よくこんなに書いたな』という量に対する感想しか出てこない。

 ツイードの黒色の文字に対して、青色のインクで上官の修正箇所が書き込まれている。打消し線で潰された文字や、差し込みで挿入されたいくつかの単語、時には段落まるまるひとつ分が大きくバツで消されている。けれど、修正は予想より少ないな、というのが全体の印象だった。

 

 

「褒めてましたよ」

 ナツキが言った。

 その態度は生意気だったが、実際よくできる優等生で、おそらく彼ならば自分が出した程度の書類くらい、もう既に同じクオリティの物をいくつか書き上げているのだろうなと思えた。

 たまに顔を出す自分のようなプリーストが、冒険者らしからぬレポートを寄越すことや、それを読んで褒める上官の姿などは、このアコライトにとってそんなに面白い話ではないだろう。

「そう」

 ツイードは軽く返事をして、斜め向かいの椅子に腰を下ろす。

「特にそれは。レポートじゃなくて、ペーパーにするべきだって」

 ナツキはツイードのほうを見ていた。俯いていたツイードも、彼のほうに視線を上げる。

「そう? そんなできじゃない」 

「したほうがいいと思いますよ、俺も」

「へえ」

 ナツキの真面目な顔に、ツイードは興味が出る。

「なかなか公正な目、してるんだな」

「公正も何も。読めばわかります」

「そっか」

 

(……俺には全然、分かんないけどな)

 

 レポートをデスクに投げ出して、ツイードはそれらを眺めた。

 評価されるべきかそうでないのかすら分からない書類も、そんなものを未だに書いている自分も。

 溜まり場に出て、狩りに行って、モンスターをなぎ倒している時の方が、よほど自分自身だという実感が得られる。そういう意味で、自分は冒険者に向いているのだろう、とツイードは思った。

 逆に言えば、目の前の書類や、本棚に囲まれたこの書庫の空気は、つい数年前まで自分の全部だったはずの物なのに、今ではまるで別の世界の出来事のように思える。

 

「俺には向いてない」

 呟いたツイードの独り言に、「でしょうね」とナツキが相槌を打った。その度胸に思わず笑ってしまって、ツイードはこのアコライトの事が嫌いになれない。

 

「真剣にこればっかりしたい、って人じゃなきゃ、向くものじゃないでしょ、こんなの」

 ナツキはペンを走らせる手を止めない。

 確かにな、とツイードは心の中でため息をついた。

 彼の文字を書き続けるペンとそのペン先に滴るインクとは違い、ツイードのそれは蓋を開けたままにしている内に全部乾いてしまったのだろう。

 

 ツイードはデスク中央にある教会の備品のインクを手にとり、キャップを外す。隣にある借り物のペンで、投げ出した書類のいくつかに修正を加え始め、初めから最後まで一周をさらっと直してから、束をまとめて席を立った。少し時間はかかったが、書いている間ずっと無言だったせいで、体感時間は早く感じた。

 

「お疲れさまです」

 顔も上げず、目の前の書類に向かってナツキが言う。

 彼のぶれない視線の先を見ながら、自分の情熱の向く先は、一体どこにあるのだろうとぼんやり考えて、ツイードはまた木製のドアに手を掛けた。

 ギイと軋んでそのドアは開いて、ツイードを外に締め出したのち、バタンと勢いよく閉まっていった。

 

 

 

5-1

 

 その日の狩りはゲフェンだった。戦闘は万事滞りなく、無事プロンテラに戻ってきた頃には夕暮れで、空がクリーム色から紺色へと変わってきていた。

 ツイードは聖水やらブルージェムストーンやらの消耗品が多く、その書き出しにけっこう時間を食った。結局、清算係のブラックスミスのところに向かったのは最後の方になってしまったのだった。

 

「はい、配当」

 ツイードの渡したメモにさっと目を通しただけで即座に金勘定が終わったらしいブラックスミス、ビジャックの手から清算分配を受け取って、その日の仕事はあっけなく終わる。

 計算速度のあまりの速さに、確認する気も起きない。こういうのは頭のいい奴に任せておけばいいというのがツイードのスタンスだ。顔見知りに会計を預けるのは何といっても安全だし、多少計算ミスがあったところでそれも手数料だと思えた。

「お疲れ様でーす」

 軽く挨拶して、袋を法衣の内側にしまう。

 さて、と振り返ってたまり場に改めて目をやれば、こちらの様子を伺っていたらしいスルガが、何か言いたげな顔で近づいてくるのが見えた。

 

「あの、」

 はい、と答えてツイードは立ち止まる。

 おそらく、彼は今日も、自分を食事に誘うつもりなのだろう。スルガと付き合いだしてから、狩りの終わりはこうやって話しかけられることが増えた。

 

 もともと、このたまり場では、その日のパーティーのメンバーで夕食がてら打ち上げをすることが結構な頻度であった。ツイードはそれにまあまあの出席率で参加していたから、ほぼ毎回出席のスルガとは、そこそこに同じ場所で酒を飲んでいたと思う。

 ただそれも偶然の域を出ないイベントであることを向こうも自覚しているのだろう。自分の恋人になったスルガは、狩りの終わりにこうやって律義に飲み会の勧誘をしてくるようになった。

 

 そのこと自体に不満はない。

 この間も、夜に散歩のような行為をしたが、それも思いがけず楽しめた気がする。

 ただ、それとは別に、最近になってツイードはこの付き合いがわずらわしくなってきているところがあった。

 

「この後、飯とかどうですか」

 

 おずおずと尋ねるスルガをツイードは少し引いた視線を眺めてみる。

 彼はこちらの清算が終わるのを待っていたのだろう。

 スルガの背後には、同じく、飲み会へ行くための足を止めているらしい他のたまり場のメンバーの姿があった。

 そういう状況のとき、彼らの目はいつも期待に満ちている。

 それは、ツイードが飲み会へ参加するかどうかへの期待ではなく、スルガが恋人の勧誘に成功するかどうかの行く末を気にしている眼差しだ。

 狩りの後、スルガが自分を食事に誘うとき、いつも仲間たちの視線が後ろにあった。

 

(こういうの、めんどくせえな)

 

 囃し立てられることよりも、じっと見守られているほうが、わずらわしさを覚えるのはどうしてだろう。やめろ、散れ、と声を掛けられないだろうか。彼らの視線を拒否する権利が、スルガにはあって、ツイードにはない。 

 どうして自分たちの関係には、いつも周囲の視線があるのか。まるで、観客のために演じている舞台みたいだ。

 

(俺を飯に誘いたいって情報が、俺より先に他人に知れ渡ってるって、どんな状況だよ)

 

「ツードさん?」

 スルガの呼びかけに、我に返る。

「あ、すみません」

 それに反射的に答えて、ツイードは改めてスルガの目を見た。

 スルガの瞳は、彼の髪の毛のような空色に少しだけ黄味が混ざった不思議な緑色をしていて、虹彩は薄く透けている。この眼に真正面から見られることに、最近は慣れてきたばかりなのに。

 

「あー、いや、今日はちょっと予定が。やめときます」

 返事を聞いたスルガが、目に見えて縮んでいく例のあれをやってみせる。肩を落としても背が伸びている感じは、何度みても興味深い。

 自分のことで一喜一憂するスルガを見ていると、悪いことをしたかな、とツイードの胸は罪悪感でちくりと痛んだ。

 けれど背後の冒険者たちがまたちらっと見えて、それにどうしても自分の判断を変える気にはなれない。

 

「すみませんね、待っててもらったのに」

「あ、いえ、どうせいつもの飲み会なんで」

「また次、参加しますね」

「はい、また、次に…」

 そう言い終わったものの、スルガは数秒、止まったままだった。

「……」

 スルガの視線が、床を這う。

 それを見ていると、面倒なのともわずらわしいのとも違う、形容しがたい苦みのようなものがツイードの胸にこみあげてきた。

 

「あー、用事、すぐ終わることには、終わるんですけど…」

 口からこぼれ始めた自分の言葉に、ツイードは不可解な気持ちになる。

「いや、やっぱでも、遅くなるかもなんで…。なんていうか、」

 顔を上げたスルガが少し意外そうな顔をしていて、ツイードは自分でもこれは自分らしくない態度だなと思った。

「待たせても悪いし、飯は一人で食いますね」

「そう、ですか」

「……、また、行きましょうね」

「はい……」

「じゃあ」

 スルガの視線がいたたまれず、ツイードは踵を返した。

 

 自分は何をやっているんだろう。

 歩き始めたツイードの背後から、仲間たちの「なんだよースルガー」という声が聞こえてきて、余計に、頭の中に靄がかかる。

 

(なんだよ、これ)

 

 自分は、振り回されている。

 けれど、それ以上に、自分が彼を振り回していることの方が大きいんだろう。

 なんだか、悪いのは自分ばかりみたいだ。

 釈然としない感情が、だんだんとイガイガした怒りに代わってきている。

 

 フェアじゃない、と気持ちでは思うのに、きっと一番フェアじゃなかったのは、あのとき好奇心だけで彼の好意に乗った自分だ、と気づいているから、理屈の操作ができないんだろう。

 結局のところ、『そもそも付き合っている自分が悪い』という極端な発想でしか、折り合いがつけられない。

 

(なら、さっさと別れるのが道理だろ)

 

 いい加減で場当たり的な関係を、妥協的に続けたくない。

 どうしてこんな投げやりな気持ちになるんだろう。

 後ろからスルガの視線を感じたけれど、振り返らないまま、ツイードはたまり場を後にした。